■ 最終話 ■ 発情☆ア・ラ・モード/玉撫子薫
【24】
10kgの牛骨を半日水にさらしてから、丁寧に洗う。
5kgの鶏がらに熱湯をかけてから、これも丁寧に水洗いして血抜きをする。
5kgの牛すね肉も綺麗に血と汚れを水洗いした後、オーブンで表面を強めに焼き付ける。
牛骨、鶏がら、牛すね肉を、寸胴鍋にぶち込んで水から火にかける。
沸騰したら丁寧に丁寧に灰汁と脂を取って茹でこぼす。
牛骨、鶏がら、牛すね肉を取り出して水気を切ったら、新しい寸胴鍋にぶち込んで、もう一度水から火にかける。
沸騰するとまた灰汁と油が浮かんでくるから、これを丁寧に丹念に取り除く。
灰汁取り作業を手抜きしてはいけない。
あたかも愛しい人を愛撫するかのように、丁寧に、丹念に。
ここまでで大体、2〜3時間。
灰汁と脂を取ったら、500gの玉ねぎ、150gのセロリ、200gのニンジン、長ネギ2本、 粒こしょう、セロリ、パセリの茎、ローリエ、タイム、エストラゴン、それから粗塩と日本酒を入れて、ここから10時間煮込んでいく。
本当は、長ネギと日本酒ではなく、ポワローと白ワインを使うのが正解なのだけれど、長ネギと日本酒を使った方が日本人の好む風味に仕上がるのだとオーナーゼフに教えてもらったのだ。
本格フレンチだと賞賛されるゼフのコンソメスープの、ちょっとした心尽くしがここにある。
実は煮込むための水も、わざわざ長野の山間から取り寄せている。
さて、ここから10時間は、ひたすら弱火でことことだ。
灰汁が浮いてきたらすくう。
水が減ってきたら足す。
決して煮立ててはいけない。
弱火でことこと。
決して鍋の傍を離れてもいけない。
ひたすらことこと。
眠気と根気との戦いだ。
そうして10時間煮込んで旨みが充分に出たら、シノワで丁寧に漉す。
こうして出来上がるのが20リットルのフォン・ブランと呼ばれるスープの素。
ここからやっとコンソメスープ作りは始まる。
5kgの牛すね肉をミンチにして、30個分の卵白と手でよく混ぜ合わせる。
粗微塵にしたニンジン、玉ねぎ、パセリ、セロリを加えて、更によく混ぜる。
両手で合計10kgを混ぜるので、もう腕もだるいし眠気も限界だが頑張る。
ここに完熟トマトを潰しながら混ぜて、これをまた新しい寸胴鍋にぶち込んで、フォン・ブランを注ぎ入れる。
その鍋を火にかける。
最初は強火で、静かにゆっくりかき混ぜながら暖める。
卵白が浮いてきたら弱火にして、またことこと。
ことことことこと。
時間をかけてゆっくりと熟成する愛のように。
卵白が灰汁を吸い取って浮かんでくる。
鍋全体に卵白の蓋が出来るから、真ん中をそうっと開けて、空気の通り道を作る。
それから、玉ねぎを1cmの輪切りにしてオーブンでこんがり焼き上げる。
焦げるくらいまで焼き上げた玉ねぎを、そっと鍋に滑り込ませる。
それから粗塩と、ほんの少しの醤油。
日本人はDNAの中に醤油が組み込まれている、といつだったかゼフが笑いながら言った事がある。
ほんの一滴の醤油が、驚くほど日本人の舌に馴染む味にするのだとか。
外国で生まれて、外国で育ったのに、日本と日本人をこよなく愛しているゼフ。
そんなゼフが、サンジには誇らしかった。
三時間くらいことこと煮込んで、卵白がすっかり浮いてきたら、これを布で漉す。
それからまたことこと5時間煮込む。
脂が浮いてくるから、それも丁寧に漉したら、綺麗な透き通った金色のスープが出来上がる。
これだけの工程を経て、ようやく取れた30人分のコンソメスープ。
サンジは、大鍋の中から最後の脂を吸着させた和紙をそうっと掬って、ほうっと息をついた。
白いボーンチャイナに、出来上がったばかりのコンソメスープを静かに注ぎ入れた。
大丈夫。
少しの濁りもない。
持てる力の全てを使った。
夢見るように金色に輝くコンソメスープ。
テーブル席には、スープスプーンと受け皿が整えられていて、ゼフが目を閉じて腕組みをして座っている。
サンジは、受け皿の上にそうっとコンソメの入った皿を置いた。
「ポタージュ・クレールでございます。」
お客様にだすように、恭しく頭を下げる。
ゼフが目を開けて、スープを見る。
ゆっくりと腕組みをとく。
黙ったままスプーンを持ち、スープを一匙すくった。
すぐには口にせず、じっとそのスープを見つめている。
サンジは、緊張でもはや倒れそうだ。
もしこれでだめだといわれても、もうサンジの体には作り直す力など残っていない。
ここに立っているのすら限界なのだ。
ゼフがスプーンに口をつける。
音もなく静かにスープを飲む。
ゆっくりゆっくり、ゼフは、何も言わずにスープを飲んだ。
時間をかけてスープを全て飲み終えてしまうと、静かに立ち上がった。
びっくりしたような目をして棒立ちになっているサンジの前に立つと、ゼフは、その頭にぽんと手を置いた。
「ひでェツラしていやがる。少し寝ろ。」
その顔は、穏やかで優しく笑んでいた。
ゼフの笑顔を見た瞬間、サンジはほうっと安堵の息をつき、その場に崩れ落ちていた。
サンジの誕生日は、いよいよ翌日にせまっていた。
□ □ □
3月2日日曜日。
「きゃあーーーん♪ キンパツくぅーん♪ はっぴーばぁすでーーーー♪」
一番乗りは、フジコとリリーだった。
驚いた事に、その後ろからフォクシー店長もやってきた。
フォクシー店長を見て、思わず一瞬、頬を引きつらせたサンジだったが、そこは根性で満面の笑みを見せる。
「いらっしゃいませ。ありがとうございますぅー。」
よほどゼフがお灸を吸えたのか、あの日以来フォクシー店長がバラティエに来ることは一度もなかったのに、何だってフォクシー店長まで呼んだんだ、と、サンジは内心で思いながら、ちらりとゼフに目をやる。
すると、ゼフは、まるで値踏みするような座った目でフォクシー店長を見ていた。
「キンパツくぅん、これ、プレゼントー♪」
フジコとリリーが豪勢なリボンのかかったファンシーな包みを差し出す。
「ああッ♪ こんなお気遣いいただくなんて!」
受け取ったサンジも、同じ調子でにこやかに返しながら、レディ達をお席にご案内する。
それからフォクシー店長にも笑顔を向け、
「フォクシーさんもお久しぶりです。ご一緒のテーブルでいいですか?」
と小首をかしげる。
するとフォクシー店長は、いつものふてぶてしい様子はどこへやら、一瞬ゼフを見てからしきりに挙動不審な様子を見せた後、
「お、おお。テーブルはうちの女の子たちと一緒でいい。で、えーと、その、これ、なんかどっかそこらへんにでも飾ってくれ。」
と、手に持った大きな花かごをサンジに差し出した。
「あ、ありがとうございます。」
「あー、あと、こりゃ、その、うちの親父からだ。」
「はあ?」
フォクシー店長の親父、というと、要するに、組長さんだ。
会ったこともない組長さんが、何故サンジにこんなものをくれるのか。
少し困ってゼフを見ると、ゼフが無言で頷いて見せたので、サンジはフォクシーに差し出されたその薄くて細長い軽い箱を受け取ることにした。
何が入ってるんだろうと思いながら、サンジはフォクシー店長に「ありがとうございます」と頭を下げた。
フォクシー店長は、「いや、なに、」と頭をかいたり汗をぬぐったりしている。
席に案内している間も、ゼフを見ては何度も何度も会釈したりしていて、どうやら本気で恐縮しているらしい。
サンジはほっと安堵の息をついた。
次に来店したのはギンだった。
この歓楽街の一角で24時間保育園の保父さんをやっているギンは、日曜日とて休みではないだろうと思うのだが、誘ったときも二つ返事で参加を了承してくれた。
「サンジさん、おおおお誕生日おめでとうっ…、俺ァ…、俺ァ…!」
何故か真っ赤な顔でがちがちに緊張しながら、その赤面に負けないほど真っ赤な薔薇の花束を出してくるギンに小首を傾げつつも、サンジはにこやかに礼を言って席に案内する。
それから来てくれたのはエースとロビン。
エースと来たら、一抱えもあるほどの熊のぬいぐるみにリボンをかけて持ってきた。
いきなりドアから熊だけが覗いたので、サンジがぎょっとしたほどだ。
「サンちゃあーん。Happy Anniversary!!」
エースは大袈裟な身振りで熊ごとサンジを抱きしめると、大きな音を立ててサンジの頬にぶちゅうと吸い付いた。
ロビンがそれを見て笑いながら、
「お招きありがとう、コックさん。」
と綺麗にラッピングされた箱を手渡してきた。
サンジは、涎でべたべたにされた頬をぬぐいながら、恐縮して箱を受け取る。
二人を席に案内すると、エースはあのエレガントなしぐさでロビンをエスコートしていた。
すぐにまた店のドアが開いて、シャンクスが姿を見せた。
これまた一抱えもあろうかという馬鹿みたいにでかいピンクの薔薇の花束と共に現れたので、サンジは思わず唖然とした。
花束の大きさで負けたギンが、どす黒い顔で悔しそうに下を向く。
「いらっしゃいませ、シャンクス。すげぇ花束だな。」
半ば呆れながらサンジがそう言うと、
「やー、サンちゃんのバースデーだからさあ、奮発しちゃった。」
と、シャンクスははしゃいで答えた。
毎年、お客様から頂いた花束やプレゼントの類は、まず店の入り口においた机の上に並べるのだが、もはやその上は花で溢れかえっていて、置ききれない分はレジ台の上まで侵略しつつある。
次いで、ナミとビビが連れ立って店に入ってくる。
「んナミっすゎ〜ん!ビビちゅわあ〜ん♪ようこそー♪」
サンジは満面の笑みでお出迎え。
「サンジ君、はぴばー♪」
「サンジさん、お誕生日おめでとうございます。」
二人が相次いでプレゼントを渡してくる。
「あああああ、ありがとう、ナミさん、びびちゃんー。」
それを鼻の下を伸ばしながらサンジは受け取った。
「あれ?コーザは?」
「仕事で少し遅れて来るそうです。」
ビビが上品に微笑みながら言う。
その二人を席に案内し、プレゼントを受け取ると、入り口からのっそりと青キジが入ってきた。
「青キジさん。」
サンジが即座に反応して出迎える。
視界の隅に、青キジの姿を見てあからさまにキョドったフォクシー店長を認めて、サンジはこっそり溜飲を下げた。
「いらっしゃいませ。」
「あァ…お招きありがとさん。今日で19歳になるんだってな。」
「はい。本日はご来店いただきありがとうございます。」
サンジが少し照れながら笑って答えると、青キジがサンジの頭の上にばさっと花束を置いた。
「わ」
「バースデープレゼントなんてついぞ買わねェからな。なに買ったらいいのかわかんねぇんで、無難に花だ。」
「ありがとうございます。嬉しいです。」
「署の食堂の食券セットとかやってもしかたねぇしなぁ。あ、パトカーに乗せてやるってのはどうだ。ガキはこういうの喜ぶんだよな。」
「せっかくですが、乗ったことあります。」
「自慢にならねぇだろ、それ。」
くっくっと青キジが笑いながら、サンジの頭をぽんぽんと叩いた。
フォクシーの一件の後、青キジはそれまでと変わらずにバラティエに来てくれていたが、サンジはどうしても青キジに対して身構えてしまう癖がついてしまい、そんな自分の気持ちと折り合いをつけるのに一苦労した。
だって青キジは何も悪くないのだ。
サンジの話を聞いてくれて、サンジをバラティエまで連れ帰ってくれた。
感謝こそすれ、青キジに対してわだかまっていいわけがない。
なのに、どうも、サンジの中で、青キジが言った「被害届が出たら逮捕する」のお灸がよほど効いてしまったらしくて、しばらくの間、青キジが来店するたびびくついてしまっていたのだ。
青キジも気がついていただろうに、決してその事でサンジを追及したりからかったりしないでくれた。
ずっと変わらずに常連さんとして通い続けてくれたのだ。
その事を、サンジは心の底からありがたいと思っていた。
「どうぞ、お席にご案内します。」
青キジの顔をまっすぐに見ながら、にこやかな笑顔で言うと、青キジの顔にふっと淡い微笑が浮かぶ。
だがやっぱり青キジはなにも言わずに、案内された席に着いた。
それからは、パティやカルネ、その他の常連客、遅れてきたコーザが立て続けに現れ、狭い店内はあっという間にいっぱいになった。
本日の主役であるサンジは、お客様にご挨拶をしたりお席にご案内したりアペリティフを出したりと大忙しだ。
シャンクスなぞは、食前酒だと言っているのに瓶でよこせだのつまみもくれだのわがまま放題なので、それをいなすのも忙しい。
今日のアペリティフには、ちょっとあざといがサンジの生まれた年にできたワインを出した。
もちろん、飲酒はゼフから二十歳になるまでは厳禁ときつく言われているため、銘柄の選定はゼフにお任せだ。
それがほんのちょっとだけ悔しい。
来年になったら、絶対に自分の舌でワインも選んでやろうと思っている。
一通りアペリティフを出し、オードブルを出し終えたところで、ヒナが来店した。
入ってくるヒナの姿を見て、瞬間、サンジの胸が高鳴る。
だが、ドアはヒナの後ろでパタリと閉まり、彼女が一人で来店したことを、サンジに知らしめた。
刹那、サンジは、きゅっと唇を噛み、けれどすぐにそれを柔らかな笑みに変えて、ドアに向かう。
「ヒナさん!来てくれてありがとうございます。」
「こんにちは。お誕生日おめでとう、サンジ君。」
微笑むヒナは、サンジへの祝いの言葉を口にしただけで、ゾロのゾの字も口にしようとはしない。
だからサンジも、何も聞かずヒナを店内に迎え入れた。
「ありがとうございます。どうぞ、こちらのお席に。」
席に案内すると、ヒナが、小さなブーケを取り出した。
「これね、プレゼント。つけてあげてもいい?」
「え? わぁ…光栄です!」
まるで小さなキャベツのように花びらが幾重にも重なったまんまるの花でできた手のひらほどのブーケ。
柔らかなアイボリーホワイトと淡いピンクの二色で、見るからに可愛らしい。
つけてあげてもいい? の言葉に首を傾げたサンジだったが、すぐに、そのブーケがコサージュにこしらえてあるのを見て取った。
「かわいいですね…。」
サンジが思わずつぶやくと、ヒナは、そのコサージュをサンジの胸元につけてやりながら、
「これね、ラナンキュラスっていう花なの。3月2日の誕生花なんですって。」
と答えた。
「へえ、誕生花なんていうのがあるんですか…。」
目をぱちくりさせるサンジ。
「きゃあーん。キンパツくん、あたしとおんなじ誕生花〜♪あたしもラナンキュロス〜。」
フジコが嬉しそうな声を上げる。
「え、フジコさんも今日がお誕生日なんですか?」
「んんん、違う。あたしは2月25日ー。」
「日によって被ってる花もあるんだよー。ちなみにあたしの誕生花はマドンナリリー♪」
リリーが横から口を挟む。
「へぇー。」
サンジはまだ目をぱちくりさせている。
誕生石というのはかろうじて知っていたが、誕生花なんて初めて聞いた。
しかも月じゃなくて日で決まってるのか。
365日分の花が決められてるんじゃあ、そりゃ被るだろうなぁ…。
「ちなみに私の誕生花は桃よ。はい、できた。」
ヒナがコサージュをつけ終わって、ぽんとサンジの肩を叩いた。
「なんだなんだ、七五三みてぇじゃねぇか、サンジ!」
ブーケとしては小さくても、コサージュにしては大振りの作りを見て、パティがからかう。
「そんな事ないわ。可愛いわよ、サンジ君。」
ナミがすぐさま反論し、隣のビビもうんうんと頷く。
「プリザーブド・フラワーね。綺麗な色だわ。」
ロビンも微笑みながら見ている。
どうやら女性陣には好評らしい、と見たサンジは、なかなかにご満悦だった。
席があらかた埋まったところで、ゼフが厨房から出てきた。
改めて、常連客達に、サンジが調理師試験に合格した事と、謝辞を述べる。
みんな、三年近くもサンジを可愛がってくれていた客ばかりだ。
サンジも客達に、
「合格できましたのも、ひとえに皆様のおかげです。若輩者ではございますが今後ともご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いいたします。」
と頭を下げた。
立派な口上は、もちろんゼフから一言一句教わったものだ。
「ご指導」はともかくとして、「ご鞭撻」ってどういう意味なのか、実は知らない。
ぺこりと一礼すると、客達が温かい拍手をくれた。
サンジはすっかり感涙に咽びそうになりながら、誕生日の礼と、今日の料理は全て自分の手によるものである事を告げ、「心ゆくまでご堪能くださいませ。」と締めると、再び頭を下げ、厨房へと踵を返した。
寸胴鍋の中で出番を待っている、サンジ渾身のコンソメスープをレードルで掬いながら、サンジは、この三年間のことと、自分がどれだけ幸せだったかを噛み締めていた。
ここのお客さんはみんながみんなとても温かい。
もちろん、歓楽街にあるという立地ゆえに、いささか困った客が来店することもあるし、常連客が手のつけられないほど泥酔して他のお客様に迷惑をかけることもある。
だがそれはもはや飲食店の日常とでも言うべきもので、この三年でサンジもすっかりそれを処理する能力を身につけた。
それよりも、サンジのような得体の知れない存在を、まるで幼い頃から知っていたかのようにすんなりと受け入れてくれたゼフと常連客のみんなを、サンジはつくづくとありがたいと思うのだ。
そもそも、勤めて三年しか経っていないサンジが、こうして客に出す料理を作らせてもらえること自体、本来ならありえない事だとサンジは知っている。
だって、以前読んだ料理漫画のコック見習いは、包丁を握らせてもらえるようになるまで、5年も皿洗いや芋の皮むきだけをやらされていた。
だからここでこうして料理を作らせてもらえるのは、本当はとても贅沢でとても分不相応なことに違いないのだ。
ありがとうございます。と、サンジは、心の中でもう一度ゼフと客達に頭を下げた。
2009/01/19
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