■ 最終話 ■ 発情☆ア・ラ・モード/玉撫子薫


【20】

 

それからしばらくの間、サンジはほんの少し不安定だった。

“被害届が出たら逮捕される”という青キジの言葉が、ことのほか身に沁みたのだ。

いつ逮捕されるのだろう、と、どうしたって店でも客が来るたびびくびくしてしまい、失敗が増え、ゼフの怒鳴り声も増えた。

ゼフはサンジの気持ちには気がついていただろうが、安易な慰めは一言も口にしなかった。

サンジも、これは自分で乗り越えるべきものだとわかっていたので、必死で毎日を過ごしていた。

 

人に怯え、気を張り詰めて、疲れ果てて、アパートに帰る。

そんなサンジを慰めたのは、やはりゾロのコラムだった。

月に一度だけの微かなゾロとの絆。

そのか細い絆だけが、サンジに力を与えていた。

 

東南アジア辺りだろうか、湖と密林の写真だ。

大きな澄んだ湖の向こうに、鬱蒼とした森が広がっている。

澄んだ静かな湖面は、鏡のように鮮やかに木々を映し出していて、水面を挟んで上下に見事な森のシンメトリーを描いていた。

ページを開いてすぐ、その風景の見事さ、静謐さに心を奪われる。

そして、ゾロのコラムを読んでその世界はますます深くなる。

 

ゾロのコラムは、水面に見えるのは映った地上の木々などではなく、湖の中にある森だと言うのだ。

水の中に、森があり都があるのだと。

湖面を覗き込んで、そこに顔が映ったら、それは自分の顔が映っているのではなくて、向こうから誰かが覗き込んでいるのだと。

 

ほんの少し怖くなるような事を、けれどゾロは静かに優しい文体で綴っている。

 

こちらが怖いと思って湖面を覗き込むとき、向こうも怯えていないと何故言える?

ほら、見てみれば、湖面に映る顔はどこか怖々とこちらを見ているではないか、と。

 

怯えなくてもいい。怖いことなどなにもないから、と言いながら、水面の上と下の世界は溶け合っていく。

 

幼な子に語りかけるような、優しい優しい口調に、サンジは思わずにはいられない。

これは本当にサンジの知っているゾロが書いた文章なのだろうか、と。

あのゾロのどこにこんなにも優しく温かなものが潜んでいたのだろうと。

 

サンジが変わっていくように、ゾロもまた変わっていく。

なのに、同じようにサンジを惹きつけてやまない。

以前と何一つ変わらない吸引力で、サンジを魅了していく。

 

あれからゾロが写った写真が掲載される事はない。

けれど、サンジは、雑誌を買うたびに、その写真のどこかにゾロの気配はないかと探し続けてしまう。

貪るように、ゾロの名残を追い求めてしまう。

 

ゾロに、会いたかった。

 

こんなに長く離れる事になるなんてわかってたら、ゾロのあのアパートを出なかったのに。

だってあの部屋にはゾロの匂いが残ってる。

ゾロに会えなくても、あの部屋にいさえすればゾロの名残に触れる事が出来た。

ゾロの匂いにくるまれて眠る事が出来た。

 

どうしてあの部屋を出てしまったのだろう。

どうして何もかもゾロの部屋に置いたまま、身一つで出てきてしまったのだろう。

 

泣きそうになって、サンジは這うように押入まで移動して、中から小さなポーチを引っ張り出した。

100円ショップで買った小さなポーチの中には、グロスが一本だけ入っている。

ゾロが初めてサンジに買い与えてくれたもの。

サンジがあの部屋から持ち出した、唯一のゾロの名残。

 

サンジは、ぎゅっとそれを両手で握り締めた。

 

その色を唇に乗せる事は、もうない。

以前、ゾロとケンカした時に腹立ち紛れに地面に叩きつけたり、女装をやめると決めてからはお守りのようにずっと肌身離さずポケットに入れていたりしたせいで、すっかり中の芯はぐずぐずになってしまった。

だからもう、めったに開けてみる事もしなくなってしまったのだけれど、それでもこのグロスは、今でも変わらずに、サンジにとって大切な大切な、ゾロとのよすがだ。

 

「……ゾロ………………。」

 

会いたいよ。は、言葉になって出ては来なかった。

 

 

□ □ □

 

 

そんな折、バラティエに、ガープというお客が来た。

ゼフの昔馴染みだというその人は、豪快に笑い豪快に飯を食い、飯の最中に突然寝て、起きたらまた豪快に飯を食っていた。

サンジには入っていけない昔話や近況報告などをゼフと親しげに話して、それからガープは、不意にサンジを見た。

「こいつがそうかい。なるほど。」

頭のてっぺんからつま先まで無遠慮にじろじろと観察され、サンジは、存外にこのお客が眼光の鋭いことに気がついて、身を固くした。

だがガープの目に、フォクシーのような値踏みするような色が含まれていない事に、幾分か安堵する。

ゾロ以外の男から性的な目で見られるなんて真っ平だ。

「若そうだが、歳はいくつだ?」

「え、と、18です。」

「18たァずいぶん若ェな。まぁ最近はビデオだのでーぶいでーだの出てっからなァ。」

「…は…?」

でーぶいでー、って何だ、ああ、DVDか。とそうは思ったが、それでも言われた意味がわからず、サンジが目をぱちくりさせる。

サンジのリアクションにガープも怪訝そうな顔をする。

「あん? 格闘ファンなんじゃねぇのか?」

「え…???」

ますます目を何度もぱちくりさせるサンジを見て、ガープが首をかしげた。

「お前さん、“red-leg ZEFF”のファンなんじゃないのかい?」

れっどれっぐ? とガープと同じように小首を傾げたサンジは、red=赤、leg=足、と脳内で翻訳して、

「レッドレッグ…赫足…、あ!」

と、それがゼフの現役時代の通り名である事に気づき、やっと合点がいって声を上げた。

「いえ、俺…、僕は、あの、ジジィ…いやオーナーの現役時代の事はほとんど何も知らなくて…、」

「なんだ、そうなのか。俺はてっきり、ミーハーな格闘ファンが、また押しかけ弟子に来たのかと思ってた。それにしちゃやけに若ェなあと。」

「“また”?」

「おう。前はよくそんなんが来たんだ。なァ?ゼフ。」

水を向けられ、ゼフは面白くもなさそうに頷く。

「へええ、そうなんだ…。」

「パティとかカルネの事だ。」

「え、パティとカルネってそうだったんだ!」

パティとカルネが昔、ゼフに弟子入りをしようと押しかけてきてすげなく追い返されたという話は知っていたけれど、そもそもの発端はそんな事だったとは知らなかった。

「格闘ファンじゃないって事は、コックとしてのゼフを見込んで来たって事か。」

「はい。」

どこか誇らしげに答えるサンジを見て、うんうん、とガープはしきりに頷いている。

「坊主、何年この店にいるんだ?」

「ええと、今年で2年目です。」

「2年ならコックの免許取れんじゃねェか?」

「え?」

コックの免許…とは、それはつまり、調理師免許のことか…?

だが中卒のサンジは調理師学校の受験資格はないはずだ。

「あの、でも…、」

「なんだ、ゼフのしみったれが取らせてくんねェのか?」

「いえ、あの、」

中卒なんです、と初対面の人に告白するのは、なかなかに恥ずかしい。

言い淀んでいると、

「誰がしみったれだ。ガープ。」

と、ゼフが眉間に皺を寄せてガープに言った。

「ゼフ、可愛い弟子なんだ、免許くらい取らせてやれよ。」

「が、がーぷ、さん、あのっ…!」

意を決してサンジが口を開いた。

「俺、あの、高校行ってないから、調理師学校には…あの…」

「あん?」

ガープが怪訝そうに首を傾げる。

「学校じゃねェよ、コックの免許だよ。」

言われた事が理解できず、サンジはきょとんとする。

そこに、ゼフが割って入った。

「ったく、もうちょっと先になったら話そうと思ってたのに、年寄りがべらべら喋りやがって…。」

何やら奥からごそごそと引っ張り出してきた。

ばさりとサンジの目の前に置かれたそれには、『調理師試験問題集』と書かれている。

サンジが目を見開いた。

 

「調理師学校に行かなくても、飲食店で二年以上働くと調理師試験が受けられる。試験は12月だ。受験料は払ってやるから受けろ。」

 

サンジがますます目を見開く。

もうまん丸だ。

そのまん丸が、じわりと潤んでくる。

「おれ・・・おれ、コックさんに、なれる・・・の?」

そのまま泣き出しそうなサンジに、ゼフがぴしゃりと

「試験に受かれば、だ。」

と言う。

途端にサンジは、出始めた涙を慌てて止めた。

目の前に置かれた問題集をぱらぱらとめくる。

「“食品衛生学出題例。食品衛生法についての記述のうち、誤っているものはどれか。一つだけ選びなさい。”」

書かれてあることをぼそぼそと読み上げる。

「“1.添加物とは、食品の製造の過程において、または食品の加工もしくは保存の目的で、食品に添加、混和、浸潤その他の方法によって使用するものをいう。
2.食品衛生とは、食品、添加物、器具、容器包装及び医薬部外品を対象とする飲食に関する衛生をいう。
3.天然香料とは、動植物から得られたものまたはその混合物で、食品の着香の目的で使用される添加物をいう。
4.容器包装とは、食品または添加物を入れ、または包んでいるもので、食品または添加物を授受する場合、そのままで引き渡すものをいう。”…」

読み上げていたサンジの顔色がゆっくり変わってくる。

「……………ジジィ。」

呆然とゼフを呼ぶ。

「なんだ。」

「……書いてある文章の意味がわからねェ。」

深刻な顔でそう言われ、ゼフは思わず天を仰いだ。

横にいたガープも一瞬瞠目した後、ぼそりと、

「今の文章は全部日本語だったと思うが。」

と控えめに突っ込む。

ゼフも、はー、と大きく溜息をついて

「英語は一文字も書いてないな。勉強しろ。その為の問題集だ。」

と、真顔でサンジに言う。

言われたサンジは、途方に暮れた顔で問題集に目を落とした。

 

こんな事なら中学の時真面目に勉強しときゃよかった。

そう思いながら。

 

 

 

□ □ □

 

 

 

調理師試験の試験は筆記試験だ。

試験科目は、食文化概論・衛生法規・公衆衛生学・栄養学・食品学・食品衛生学・調理理論の7科目から成り、全60問を4肢択一解答方式で答える。

四択だから、でたらめに選択しても四分の一の確率で当たる可能性がある。

「よし。」

そう思うとちょっと気が楽になった。

 

いつものコックさん修行に加えて、試験勉強も始める事になり、サンジの生活は非常に時間に追われるものとなった。

いろんなことを詰め込みすぎて、頭の中はちょっと振っただけで覚えたことがぱらぱらと耳から零れてきそうだ。

それでもサンジは精神的にとても充実していた。

調理師試験を受けることが出来る、ということが、サンジの疲れを吹き飛ばすほどに嬉しかったのだ。

 

嬉しいといえば、思いもかけない事もあった。

受験に必要なので卒業証明書をもらいに出身中学校に訪れた時だった。

そもそも、サンジの卒業した中学校では、卒業証明書の発行手続きは郵送でも可とのことだったのだが、申請書類に必要事項を記入する際、「卒業時のクラスと担任名」という項目があり、サンジはどうしても担任の名前が思い出せず、結局母校まで足を運ぶ羽目になったのだ。

中学を卒業して何年もたっていないというのに、なんだかもう10年ぶりくらいな気持ちになりながら、サンジは校門をくぐった。

生徒用の昇降口をぐるっと回って、職員玄関に回る。

窓口で名前を告げると、応対の事務員は微苦笑を浮かべた。

前日、さんざんに電話でやり取りしたのはこの人だったか、とサンジも思わず笑った。

どうしても担任の名前が思い出せなかったサンジは、学校に問い合わせの電話をかけたのだが、それがあまりにも要領を得なかったため、この事務員さんをさんざんに困らせてしまったのだ。

事務員さんにしてみても、卒業証明書の発行は卒業生本人でないとできないため、書類不備では本人確認が出来ないのだ。

 

窓口から、ひょいと事務員さんの背後の職員室内を覗き込む。

「あ、いたいた。あれあれ。あれが担任。」

見つけた教員の一人を、サンジはそう言って指差した。

事務員さんもその指先を辿るように振り返る。

「アイスバーグ先生ですか。」

「あー、そういやそんな名前だったっけか。おーい、センセー!」

せんせー、とサンジが大声を出した瞬間、職員室内にいた全員の目が一斉にこっちを見た。

当たり前だ、職員室にいるのは事務員さん以外はみんな「先生」だ。

だが、サンジが担任だと指差した教員だけは、サンジを見て驚いた顔をした。

「なんだ、サンジじゃないか。ンマー、ひさしぶりだなぁ。どうした、お前。元気でやってたか?」

スリッパをぱったんぱったん言わせながら、その教員が近づいてきた。

「元気だよ。センセーも変わんねェなァ。」

「敬語ぐらい使え、コラ。」

こつんと頭を軽く小突かれた。

「センセーもお変わりアリマセンカ?」

サンジが笑いながら言い直すと、アイスバーグが目を丸くした。

「ンマー、お前の敬語なんて初めて聞いたな。」

言われてサンジは笑い転げた。

それから、今日の来訪の目的を聞かれたサンジは、調理師試験を受けるので卒業証明書が欲しい、という話をアイスバーグにした。

すると、アイスバーグは一瞬ぽかんとしてから、その顔を泣きそうに歪めた。

「そうか…お前もがんばってるんだなぁ…。」

「え、何しみじみモード入ってるの、センセー。」

「しみじみもするさ。こっちゃ毎年ガキども卒業させるだけの立場だがな。お前さんみたいに卒業時点で進学も就職も決まってない、なんて生徒は、どうしたって後々まで気にかかるもんなんだ。ことにお前んとこは、おふくろさんだって一度も面談に来た事もなかったし、補導歴もあったし…。」

そういえばそうだったな、とサンジは過去回想する。

サンジが中学に在籍した三年間、サンジの母親はただの一度たりとも学校に足を運んだ事はなかった。

下手をしたら、彼女はサンジの中学がどこに建ってたかすら知らなかったかもしれない。

家庭訪問の時、それを担任に指摘された母親は、「だって中学校は子供の行くところでしょう? どうして大人が行かなきゃいけないのかしら?」と、心底不思議そうに首をかしげながら言ったのだ。

家庭はネグレクト気味の母親しかいない、出席日数も心許ない、成績も悪い、進路も全く決まっていない、補導歴もある、そんなサンジを、この担任は随分気に掛けてくれて、けれどサンジは在学中にはそれをろくに感謝もしなかった。

むしろ、教師がそれをするのは自己保身のためとすら思っていた。

妙にすまない気持ちになって、サンジは居住まいを正した。

「…在学中はいろいろとお世話になりました。今、俺、レストランで働いてます。コックになりたいと思っています。先生もぜひいらしてください。」

そう言って頭を下げた。

担任は目をしぱしぱさせながら何度も頷いて、絶対行かせてもらうよ、と約束した後で、バラティエが一番安いランチですら1,500円することを知り、自分達の薄給をしきりにぼやいた。

 

2007/12/07

 

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