■ 最終話 ■ 発情☆ア・ラ・モード/玉撫子薫
【15】
新年あけて、ある日曜日。
バラティエが定休日のその日、けれど、店内はちょっとした緊張感に包まれていた。
店内にはゼフとサンジの二人だけ。
店のテーブルについたゼフは、目を閉じて腕組みをしている。
そこに、サンジが緊張した面もちで、仕上がったコンソメスープを運んできた。
ゼフの前にことりと置いて、そのままサンジは直立不動で固唾を飲む。
ゆっくりとゼフが腕組みを解いた。
目を開けて置かれたスープを睨む。
おもむろにスプーンを取り上げてスープを一匙掬う。
サンジの心臓は最高潮に痛くなった。
けれど。
「やりなおし。」
スプーンの中のスープを一瞥しただけで、ゼフは口にすることなく皿に戻した。
「なんでだよ!」
思わずサンジは怒鳴った。
だってこのコンソメを作るのに、サンジは丸二日を費やしたのだ。
20kgもの牛骨や牛スネ、鶏ガラや何kgもの野菜とワインを使って半日がかりでフォンブランをとった。
それだけ大量の食材を使っても、とれるフォンブランはたった20リットルだ。
そのフォンブランを、30個分の卵白で練り上げた合計で10kgにもなる牛挽き肉と野菜とともに火にかけて、焦げ付かないように絶えずかき混ぜて、更に半日以上煮込んで丁寧に濾して、やっと仕上げた、10リットルのコンソメスープ。
それをゼフは、見ただけで飲みもしないで、やり直しを命じた。
サンジが思わず食ってかかったのも、無理からぬ事ではあった。
「何でもくそもあるか。俺がやり直しと言ったらやり直しなんだ。ひよっこふぜいが四の五の抜かすんじゃねェ。」
にべもない言い方に、サンジがカッとする。
「俺のコンソメの何が悪いってんだ!! この二日、ろくに寝ねェで全部てめェの教えどおりにやったんだぞ! それを一口も食わねェでっ…!」
「調子に乗るんじゃねェ、半人前が。」
激昂するサンジを、ゼフが厳しい目で見据えた。
「全部俺の教えどおりにやっただと? それでなんでスープが濁る。」
ひゅ、とサンジが息を呑んだ。
「ふざけんな! 俺の…、俺のスープの…ど、どこが……。」
言い返しながらも、その目は動揺を隠せない。
ゼフの目の前のスープに視線を落とす。
美しい黄金色のスープ。
ゼフの作ったものと寸分違わない…、と、思っていた。さっきまでは。
浮かれていたのだ。
たった一人で疲労困憊しながら、それでもコンソメを仕上げることが出来て。
自分の力でコンソメを作り上げたことが嬉しくて。
けれど。
けれど……ああ、今ならわかる。
ゼフの目の前に置かれたスープには、…澱みがある。
僅かだけれど、確かな濁り。
美しい金色が、損なわれている。
すうっとサンジの脳天から血の気が引く。
無意識のうちにゼフの手元からスープ皿をひったくっていた。
皿に口をつけて、それを呑む。
全身から力が抜けていく。
「なん…なんで……」
全て教えられたとおりにやったのに。
毎日ゼフの手元を覗き込んで。
ゼフの技術の全てを盗んでやるくらいの勢いで。
なのに。
何十キロもの牛骨、鶏がら。
大量の野菜。
みんなサンジにおいしくしてもらうために待ってたのに。
全部サンジがゴミに変えてしまった。
「なんで……」
呆然と呟いて、サンジはぺたんとその場に座り込んでしまった。
この二日、全く感じていなかった疲労が、いきなり全身にのしかかる。
もう一回やり直したい。
けれど、また食材を無駄にしてしまったらどうしよう。
初めての大きな失敗は、サンジに思いのほかダメージを与えていた。
「…俺ァいつもてめェになんて言ってる? チビナス。」
サンジのあまりのへこみっぷりに絆されたのか、ゼフが心なしか優しげに、けれどつっけんどんに聞いてきた。
「“料理は愛だ”。」
ぽつんとサンジが呟く。
「そうだ。どんな料理でも愛を欠いた瞬間にまずくなる。愛のねェ料理はクソだ。」
ゼフの言葉に、サンジはぐっと押し黙る。
自分の料理は愛を欠いていたのだろうか。
たまねぎ一つ、骨の一片に至るまで、愛を注いだつもりだったのに。
わからなくなって、サンジはゼフを見上げる。
「俺、の、愛が足りなかったのか…?」
まるで迷子の子供のような心細げな声に、ゼフの眼差しがふっと和らいだ。
「なァ、チビナス。」
ぽん、とサンジの頭の上に大きな手が置かれた。
「愛ってなぁ、焦っちゃいけねェのさ。」
子供に言い聞かせるような、優しい声だった。
「若ェうちは早く結果を出そうとしてどうしても焦る。どんな愛でも、だ。」
サンジはゼフを見上げてその言葉を聞いている。
「“手早く”と“焦る”は違うんだぜ?」
その言葉に、サンジははっとする。
サンジの表情が変わって行くのを眺めながら、ゼフはゆっくり言葉を継いだ。
「サンジ、何をそんなに焦ってやがる?」
ゼフの言葉は、サンジを絶句させるのに充分な説得力を持っていた。
確かに、焦っていた。
それを看破された事に、サンジは驚愕していた。
「一年。」
突然言われたその言葉に、サンジの体がびくりと震える。
「一年で帰るっつってたなぁ。あのチンピラは。」
あのチンピラ、とゼフはいまだにゾロの事をそう呼ぶ。
それでもこの一年で、ゼフのゾロへの様子はずいぶん軟化していた。
あの別れの日を境に。
あの日のゾロの姿勢は、ゼフにも何かしらの感慨を与えたらしい。
あれからゼフは、それまで口癖のように言っていた“あんなチンピラの事なんざ忘れちまえ”という言葉を、言わなくなった。
もちろん、応援するような事も言わなかったけれど。
「去年のてめェの誕生日だったな。あのチンピラがここに来たのは。」
サンジの頭が、だんだんと悄然としたように項垂れていく。
「再来月にゃあ、またてめェの誕生日が来る。」
ゼフの語調は静かだ。
けれどサンジはどんどん俯いていく。
「あのチンピラが言ってた、“一年”だ。」
サンジは、きゅ、と唇を噛んだ。
「……あのチンピラが帰ってくるまでにコンソメを完成させようとして焦ってんだ。てめェは。」
もうサンジはゼフの顔が見られない。
改めて言葉にされて、自分の愚かしさが痛い。
情けない。
焦ってた。
早くコンソメを物にしなくちゃと思って。
フォンブランの段階で思いのほかうまくいって、浮かれてもいた。
早くゾロに自分の作ったコンソメを飲んでもらいたかった。
コンソメがうまくいったらゾロもすぐ帰ってきてくれるような気もして。
早く。
早く。
コンソメを仕上げなきゃ。
まるで焦る必要もないところで、サンジはついうっかり気忙しくなった。
煮立ててはいけないコンソメを、沸騰させた。
ぼこっと鍋に泡が一つたった瞬間に、サンジは気づいて慌てて火を弱めた。
だから大丈夫だと思ってた。
ほんの一瞬だったから。
まさかあの一瞬が、こんなふうにコンソメの透明感をくすませる事になるなど、思いもしなかった。
焦りが、それまでの全ての食材と、それにかけた時間と労力を、一瞬でだめにした。
しかもダメにしたものを、サンジは平然とゼフに出した。
気づかれないだろうと。
「…………っ…!」
自分が情けなくて。
悔しくて。
どうしようもない憤りに苛まれて、サンジは頭を上げる事が出来なくなった。
いっそゼフが怒鳴ってくれればいいのに、と思った。
いつものように、「馬鹿野郎!」と大声で。
「大切な食材を無駄にしやがって!」と。
そしてこの腹に蹴りをぶち込んでくれればいいのに。
だがゼフは激昂一つしなかった。
罵倒もせず、蹴りもせず、ただ静かに、サンジのしでかしたことを看破した。
それが、蹴られるよりも尚強烈に、サンジに悔しさを植えつけた。
「その悔しさを骨身に叩き込んどけ。」
ふん、とゼフが鼻先で笑うのが聞こえた。
「だいたい俺が十年かけてやっと物にした秘伝のコンソメが、てめェ如きひよっこに一年足らずで物にされてたまるかよ。100年早い。」
「…100年後は俺は117歳だ。クソジジィ。」
覇気のない声で、それでも言い返してきたサンジに、ゼフはほんの少し目を細めた。
「スゲェじゃねェか。長寿番付に載れるぞ。」
「アホか。ジジィこそあと100年生きるって豪語しただろうが。長寿番付はてめェが載れよ。」
「おお、俺はぶっちぎり一位で載ってやる。そんで117歳のてめェをチビナス呼ばわりしてやる。」
快活に笑いながら、ゼフが席を立った。
立ち上がるついでに、テーブルの上に残っていた失敗作のコンソメスープの皿を持ち上げる。
流しに下げるつもりだろうかと、ぼんやり顔を上げたサンジの目の前で、ゼフが無造作にスープ皿に口を付けた。
そして一気に飲み干す。
唖然とするサンジに目もくれず、ゼフは、
「牛骨の血抜きが足りねえ。焼き付けんのはもっと大胆にやっちまっていい。絶対に沸騰させるな。味付けが少し濃いな。大胆に繊細に、だ。覚えとけ。」
と、一息で言い切った。
「は、はいっ」
「愛の形ってのは様々だ。強火で一気に焼き上げて仕上げる愛もありゃあ、弱火でじっくりコトコト時間をかけて仕上げる愛もあらァな。だがどれも共通してるのは、焦っちゃなんねェってこった。」
「…はい!」
「わかったら、もう一度いちから作り直しだ。ひよっこが材料の無駄だとか気にするんじゃねェ。無駄になるのが心苦しいんなら一回一回の失敗を心に刻み付けろ。」
「はい!」
サンジは、顔を上げて厨房に駆け出した。
コンソメを物にするまで、何十リットルでも何十ガロンでもコンソメを作り続けてやる。
何年かかったって、もう焦らない。
そう思いながら。
2007/01/23
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