■ 最終話 ■ 発情☆ア・ラ・モード/玉撫子薫


【10】

 

この国に来てから、スモーカーは飽きず霧の写真ばかりとっている。

霧の中に、スモーカーの原風景はあるのだと言う。

スモーカーがファインダー越しに覗く同じ世界を、ゾロは肉眼で見ながら言葉を乗せる。

頭に浮かんだ言葉を手帳に走り書きする。

それはまだ、言葉の羅列でしかない。

ただ浮かぶ言葉を浮かぶまま、ペンを走らせる。

 

二人に会話はほとんどない。

 

スモーカーは黙々とシャッターを切り続ける。

 

ゾロはひたすらに文字を書き続ける。

 

 

頭の中が真っ白になるまで。

 

 

どの街に行ってもこのやり方は変わらなかった。

 

 

 

「俺は万人の原風景を撮りたい。」

そうスモーカーは言う。

「もちろんお前のもだ。ロロノア。」

事あるごとに。

 

「お前の心の中も撮りたい。お前の心に繰り返し浮かぶものはなんだ?」

 

原風景。

自分の魂の還って行くところ。

 

目を閉じると、浮かぶのはきまって、あのふわふわした金色だった。

優しくて温かい、あの金色。

 

だけど、あの金色はサンジが持っている。

サンジのいる日本を出た今、この世界中のどこかに、あの金色の風景があるとでもいうのだろうか?

 

─────会いてェな……。

 

日本を出て数ヶ月しかたっていないのに、ゾロはもうそんな風に思う。

いくらなんでも早すぎやしねェか、とゾロは自分で自分に苦笑する。

自分で決めて自分で出てきたのだ。

納得できるものを、まだ何一つ書けてすらいない。

 

それでもどうしようもなく、サンジに会いたい、と思う。

あの柔らかな金色を抱き込んで眠りたいと思う。

 

ふとした拍子に、心は勝手にサンジの事を考えている。

勝手にサンジの元へ飛んでいく。

 

サンジの元に還っていく。

 

 

 

 

原風景。

 

 

 

 

─────自分の魂の還って行くところ。

 

 

 

□ □ □

 

 

 

この頃のサンジは以前にも増して忙しくなった。

何しろ、今までの、掃除・洗い場・下拵えに加えて、本格的なコックさん修行も始まったからだ。

ゼフは、コンソメスープのみならず、コックとしての一通りをサンジに課した。

毎日毎日、厳しい指導と罵声と共に、強烈な蹴りが飛んでくる。

それに応戦するためにサンジの足技も冴えていく。

おかげでサンジは日々生傷が絶えない。

 

けれど、心は充実していた。

 

自分が何かを出来るということが、やるべき何かを成せるということが、ただひたすらに嬉しかった。

 

空っぽな自分が少しずつ埋まっていくことが。

 

誕生日の時の一件で客応対もだいぶ慣れた。─────慣らされたというか。

敬語はまだうまく使えなくて、時々不思議な日本語になったりしたけれど、それでも客と話す事は以前よりも怖くなくなってきた。

言葉の使い方がおかしくても、心を込めて話せば、大体の客はサンジの心を受け取ってくれた。

ウェイターに一番求められるのは、言葉遣いなんかよりも気配りとタイミング。そんな事も覚えた。

常にお客様に注意を払って、グラスは空になってないか、もう食事は終わってないか、次の料理を出すタイミングはいいか、さほど広い店ではないのだから、それこそ見落としは許されない。

 

サンジの今の課題はフランス語だ。

バラティエはフレンチのお店でゼフもフレンチ圏の国の人だから、メニューはフランス語で書いてある。

もちろんフランス語の下に日本語の説明書きも添えてあるのだが、料理用語やなんかは全てフランス語だから、この際覚えてしまえとばかりにサンジはフランス語の勉強も始めた。

働いていれば自然と耳に入ってくる基本的なフランス料理用語は、もうほとんどは覚えた。

店でよく出るワインの名前もまあまあ何とか。

ワインの味は、まだ未成年だから飲むことが出来ないから、ゼフに教わったとおりの説明しか出来ないけれど。

本当は、ゾロと暮らしていた時には、ビールくらいならゾロに付き合って飲んでいたりもしたのだけど、そんなことゼフに言ったら確実に料理長キック炸裂だ。

 

長年バラティエの店の中で寝泊りしてきたゼフは、店の奥の、本来ならたぶん従業員の休憩室とかそんなとこになるんだろうけど、その部屋に寝ていて、その2畳くらいしかない狭い部屋には、フランス語で書かれた本やレシピなんかもいっぱい置いてある。

いつかそれを読めるようになりたいなあ、なんて事まで実はサンジは思っちゃったりしている。

 

思いは尽きない。

あれもしたい。これもしたい。

一日が24時間だけじゃ、とても時間が足りない。

 

ゾロとの“旅立ち前の熱い抱擁”を知っている商店街振興組合会長のシャンクスなどは、バラティエに来るたびに、

「寂しいでしょ、サンちゃん。おじさんが慰めてあげようか。」

等とサンジをからかっていくのだが、寂しいなんて思う暇もないほど忙しいのが現実だ。

何しろサンジはゾロが帰ってくるまでの一年で、男を磨かなければならないのだから。

 

そりゃあ、寂しくないと言ったら……嘘になるけど。

 

大嘘になるけど。

 

 

 

□ □ □

 

 

 

ヒナが再びバラティエを訪れたのは、もうだいぶ青葉がその色を濃くしてくる頃だった。

本当はもっと早く来たかったのだが、ここ一ヵ月、寝る暇すらないほど忙しくて、なかなかままならなかった。

混むだろうランチタイム開始早々を避けたくて、ヒナは一時を回ってからバラティエのドアを開けた。

「ああっ! ヒナさぁん♪」

即座に弾んだ声が出迎えてくれた。

「こんにちは。サンジ君。」

「いらっしゃいませー♪ やっと来てくれたんですねぇっ♪ ああ、変わらずにお美しい。」

くるくると踊るような軽やかな足取りでヒナの元に来たサンジは、「どうぞ奥のテーブルに♪」と、恭しくお辞儀をしながらヒナをテーブルに案内する。

 

その姿に、ヒナは思わず違和感を覚える。

 

この子は…こんなに軽い性格だったろうか?

 

ヒナがサンジに会うのはこれで二度目でしかない。

だからサンジの性格をそれほど熟知しているわけでもなかったが、けれど、初対面の印象とはやたら違和感がある。

 

「サンジくん、元気そうね。」

「あなたに会えなかった昨日までの僕はまるで塩を振った青菜のようでしたが、今日の僕はまるで生まれ変わったように元気です、ヒナさん。」

 

…こんなにおちゃらけた性格だとは思っていなかったのだけれど。

 

可愛らしい笑顔は以前のままだ。

人懐こい応対も変わらない。

なのに。

 

浮ついた言葉と、慇懃なほどに丁寧な物腰。

 

それをヒナは、ほんの少しの不快感を持って眺めた。

 

「本日のお肉のランチは和牛のほほ肉の赤ワイン煮・ナスとほうれん草のパスタ添え、お魚のランチは初がつおのカルパッチョ・焼きナス添え、お野菜のランチは夏野菜ときのこのグリル・マスタードソースでございます。」

にこやかにメニューを説明する口調にも淀みがない。

 

初対面は、確かもう少し、接客もぎこちなく、初々しかったように思う。

あれから数ヶ月しかたっていないというのに、今のサンジの醸し出す空気はもうすっかり歓楽街の人間のそれだ。

艶やかな笑顔と洗練された所作。

このまま夜の店の黒服をやってもなんら遜色のない空気。

 

「じゃあお魚のランチで。」

「かしこまりました。食前のグラスワインと食後のデザートはお持ちしますか?」

「お願いするわ。」

 

注文をとると、サンジは魚が泳ぐように軽やかで優雅な足取りで厨房に入っていく。

厨房に入ってからの動きもてきぱきと気が利いていて無駄がない。

即座にセットされるカトラリー。

こちらが一息ついたタイミングで運ばれてくるグラスワイン。

サンジの給仕能力は前回と比べものにならないほど向上している。

短期間でこれほどになるために、この子はどれだけの努力をしてきたことだろう。

それだけに、ヒナは、サンジがそれらのスキルを上げるのと同時に身に纏ってしまった、どこか世間擦れしたふてぶてしくすら見える軽薄そうな空気を、残念に思った。

 

ヒナに給仕をしながらも、サンジは店内の別の女性客にも甲斐甲斐しく声をかけ、大げさなほどの美辞麗句でもてなしている。

レストランのウェイターと言うより、ホストかなにかのようだ。

 

どうしてこの子は短期間にこれほど変わってしまったのだろう。

 

今のサンジはゾロのことなど欠片も思い出しもしないように見える。

けれどそれはしかたないのかもしれない。

サンジはまだ若い。

若さは時間の進み方すらヒナ達とは違えてしまう。

加えて歓楽街のレストランだ。華やかな人種の出入りも多かろう。

この容姿にこの愛想の良さだ。男としての誘惑も多かろう。

強い刺激に毎日晒されていれば、ゾロとの日々などあっという間に遠い記憶の彼方なのかもしれない。

 

自分が持ってきたこれは、もうサンジには無用のものかもしれない。

我知らず、ヒナは小脇に置いたブリーフケースをそっと撫ぜた。

 

渡すべきかどうしようか、と逡巡しながら、変わらずに美味なランチを堪能し、食後のデザートも完食して、ヒナはようやっと決意した。

 

席を立ち、会計を済ませる。

サンジがにこやかに戸口まで見送ってくれる。

 

「とてもおいしかったわ、ありがとう。」

お礼にこれ、と、ヒナはサンジに大きな封筒を手渡した。

 

「ゾロ達の連載始まったから。」

 

 

その瞬間、サンジの軽薄な仮面はあっさりと崩れた。

 

 

「ゾロ、の…?」

零れそうなほど見開いた目と、まるで宝物のように大事そうに呟いたゾロの名の響きで、ヒナは自分の認識の誤りに気が付いた。

 

サンジはゾロの事を忘れて軽薄に笑っていたわけではない。

 

軽薄な笑顔の下に本心を隠してしまっていただけだ。

 

 

サンジが一番長けたのは─────給仕でも料理でもなく、自分の感情を隠すこと───────

 

 

ゾロの名前一つで、こんなにもたやすく素顔をさらけ出してしまったサンジを見て、ヒナはようやっと、ほっとしていた。

 

─────この子は何一つ変わってなんかいない…

 

「毎月連載の予定だから…来月も持ってきてあげるわ。」

ヒナがそう告げると、サンジは封筒に落としていた目線を慌てて上げた。

「え、いいよ、ヒナさんっ! 俺、本屋さんでちゃんと買うからっ…!」

気がつけばサンジからはすっかり敬語が抜けている。

そのことに本人はまるで気がついていない様子だ。

「あら、いいのよ? 別に。それとも私が来るのは嫌?」

「とんでもないっ! ヒナさんなら一日中いていただいても俺はおもてなししますっ! …でもっそうじゃなくって、あのっ…、」

 

そうしてサンジは、ほんの少し顔を赤らめながら、

 

「…ちゃんと、自分の稼いだお金で、買いたいんだ…。ゾロの…。」

 

と、ヒナから見れば実に可愛らしい事を言ってのけたのだった。

 

 

 

□ □ □

 

 

 

ヒナが帰り、ランチタイムも終わると、サンジは賄いの用意もそこそこにトイレに立てこもった。

外でゼフがなにやら怒鳴ってるのが聞こえるが、まあ知ったこっちゃない。

今日はそれどこじゃないのだ。

ヒナが雑誌を渡してくれた時から、もうずーっと気が急いていたのだから。

便器に座り、渡された紙袋を開ける。

今月号は紫陽花に囲まれたお寺の写真の表紙。

目指すページはすぐにわかった。

付箋が貼ってある。

 

以前見た写真が、ややショッキングだったせいもあって、サンジはほんのちょっと息を詰めながら恐る恐るページをめくった。

 

現れたのは、霧に覆われた異国の街並みだった。

 

生々しい現実を伝えてきた前回の写真とは打って変わった幻想的な光景に、サンジは見入る。

 

明け方、だろうか、灰色とも蒼とも紫ともつかない、仄明るいような不思議な色の霧に、街が包まれている。

一見して異国とわかる、石畳の細い路地の向こうに、堅牢な建物が見える。

お城のような、牢獄のような。

街並みは重厚さを感じさせるのに、あいまいな靄のせいで、それらは全て、まるで夢の中の風景のようだ。

近づいたら、街並みごと掻き消えてしまうかのような。

そのくせ、霧の奥に吸い込まれてしまいそうな。

 

『スモーカーの“原風景を行く。”』

そう、コーナータイトルがつけられていた。

原風景ってなんだろう、と思いながら、コラムに目を走らせる。

心臓が痛いほどどくどく言うのを必死に抑えながら。

 

コラムもまた、不思議なトーンに彩られていた。

 

自分は確かにあの霧の向こうに何かを忘れてきたのに、それが何か思い出せない。

霧の向こうへ行く事もできない。

確かに自分はこの霧を振り払って出てきたはずなのに。

 

というような、コラムともポエムとも小説ともつかない文章。

書き手は、霧の向こうの“忘れ物”をしきりに気にしながらも、思い出せないものならばいっそもう二度と思い出すまい、と、結んでいる。

 

前回と同じように、読み手の中に斬り込んできて……けれどそれは不快ではなかった。

思い出すまい、と、一見“霧の向こうの忘れ物”を斬り捨てたように見えて、この文章からは斬り捨てたような冷たさが伝わってこない。

思い出せないのなら思い出せない自分を抱えたまま、思い出さずに生きていこう、と、自分を丸抱えにしている。

しなやかな、強さ。

それが読後に不思議な温かみを覚えさせる。

 

文章の後に、小さく、「コラム/ロロノア・ゾロ」とクレジットされている。

 

ロロノア・ゾロ、と印字されたそれを、サンジは震える指でなぞった。

「ゾロ……。」

小さく呟いた声も、震えてしまっていた。

 

「…………………………ゾロ………。」

 

もう一度呟いて、サンジは雑誌を抱きしめた。

 

 

2006/08/31

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