■ 最終話 ■ 発情☆ア・ラ・モード/玉撫子薫
【7】
突然ゾロから「話がしたい」と言われて、サンジが驚きのあまり硬直していると、
「ここはそういうサービスをする店じゃねェ。他へ行け。」
唸るような低いゼフの声がした。
顔を上げると、ゼフが見た事もない険しい目でゾロを睨んでいる。
そのあまりの刺々しさに、サンジの顔から血の気が引く。
サンジは、このとき初めてゼフの険悪なオーラに気がついたのだ。
慌ててゾロを振り返ると、驚いた事に、ゾロは真正面からゼフの視線を受け止めてゼフを見返していた。
ゾロの目には険ひとつなく、ただ真摯な色だけがある。
「そういうんじゃない。ただサンジと話がしたい。」
静かな、けれど真剣な口調に、ゼフが僅かに気おされる。
「仕事中だ。」
「…それほど時間はとらせない。…頼む。」
ゾロとゼフは、しばしの間、お互いに視線を外そうとはしなかった。
獰猛な肉食獣が二匹対峙しているような、息も詰まる緊張感が店内を包んだ。
やがて、ゼフが根負けしたように大きく息を吐いた。
「話ならカウンターでしろ。外で二人っきりになる事は許さん。」
それからサンジを見て、
「チビナス、1卓にショコラ二つ持ってったら休憩に入れ。」
と言った。
ゾロとゼフの攻防を見て、ハラハラするやらおろおろするやらしていたサンジは、
「は、はいっ!」
と返事して、急いで厨房に飛び込んだ。
その間に、ゾロは、ゼフに軽く頭を下げて、ヒナを振り返り、手を出した。
ヒナが脇に置いていた大きなブリーフケースから、大きな封筒を取り出してゾロに渡す。
ゾロはそれを持ってカウンターに座った。
やがて、ヒナ達にガトーショコラとお茶を給仕したサンジが、ゾロの分のコーヒーを持ってカウンターに来る。
ゾロの前にコーヒーを出すと、ゾロが、サンジをちらりと見上げて、座れ、というように顎をしゃくった。
サンジがゾロの隣に腰掛ける。
改まると、久しぶりに会ったせいか、なぜかやたらと緊張してしまい、サンジは俯いたまま、まともにゾロの顔も見れない。
「…いい店だな。」
ゾロが静かな声で言う。
「うん。…あの、あの…、なんか、ジジィ、ゾロのこと誤解してて…あの…ごめん…。」
サンジがしどろもどろになりながら謝ると、ゾロが微かに苦笑した。
「別にいい。…可愛がられてるんだな、お前は。」
「えっ!?」
見る見るうちにサンジの顔が赤くなる。
「そ、そんなことねぇよっ! クソジジィなんだぜ? ひ、人の事怒鳴るし蹴るし…。」
言い募っていると、厨房の奥で、ゼフが小さく「クソジジィたァ何だ」とひとりごちた。
「雇ってくれて、アパートの保証人にまでなってくれたんだろ? そうできるこっちゃねぇぞ。」
「う、うん。」
別にサンジとて、本気でゼフをクソジジィと思っていたわけではないので、ゾロの言葉に更に赤くなって俯く。
だが、ゾロがゼフを褒めてくれるような事を言ったのが嬉しくて、へらっと笑う。
そんなサンジを見つめるゾロの目は、どこまでも優しい。
こんなに優しいゾロの目を見るのは初めてのような気がして、サンジは何度も何度もまばたきをした。
あまりにゾロがじっとサンジを見つめているので、サンジはどうしていいかわからなくなる。
どうしてゾロはこんなにずっと見つめてくるんだろう。
そういえば、店に来たときから、ずーっと見つめてきていた。
まるで───────
その瞬間、背筋がぞくりとした。
─────まるで、もう二度と、会えないかのように。
「ゾ、ゾロ…?」
不安を隠す事ができずにゾロを見上げる。
ゾロは、それには答えず、テーブルの上に置いた大きな封筒を手に取った。
何故かサンジは、ゾロから、軽い緊張のようなものを感じた。
ゾロが、封筒の中から雑誌を取り出す。
黙って渡されたそれに、サンジはきょとんとした顔を作る。
綺麗な雪原の写真が表紙になった雑誌。
何かの足跡が、雪原のずうっと向こうまで続いている。
それは、あの、ゾロのコラムが載ったグラフ誌だった。
サンジは小首をかしげながらも、中のページに付箋がついている事に気がついて、そこを開いた。
「うわ…。」
思わず眉を顰めたくなるほどの痛々しい写真が目に入った。
狭いビルの間を歩く猫の姿。
この歓楽街ではよく見かける風景だ。
路地裏の光景も、どこかひどく既視感があって、馴染み深い。
けれど、その猫は。
異様な尾をしていた。
焼かれたのか、付け根まで毛が一本もなく地肌が露出していて、その肌もケロイド状に醜く爛れている。
ぴんと立てた先端などは、どす黒くなっていて、白っぽい骨のようなものが見えている。
「う…。」
サンジが口を押さえた。
ゾロが慌てて雑誌を閉じる。
「悪い。お前はこーゆーのダメか。」
口を押さえたまま、サンジがふるふると首を振る。
「だい…じょぶ…。」
ゾロの手から雑誌を受け取って、そのページをもう一度見る。
「…この猫…しっぽ、どうしたの?」
「さあ。人間に焼かれたか…何か事故にあったか。」
見れば見るほど陰惨な写真だ。
見開きのそのページは、全体がどれもそんな風な、どこにでもあるような、けれど直視しがたい写真ばかりだった。
写真は、撮影者の感情を何一つ伝えてこない。
撮影者が何を思って、この光景にシャッターを切ったのか。
ただ淡々と、あるがままのそれが映し出されている。
陰惨な写真ばかりだと思うのに、それらは全て、どこにでもあるありふれた日常だとでも言わんばかりに、無造作にぽんと手のひらに乗せて差し出されてくる。
なのに、これほどまでに、人の心に何かを投げかけてくる。
“何か”を強く強く訴えてくる。
まるで、…見る者の心を試すかのように。
じっとそれらの写真を見ていたサンジは、横に添えられたコラムに目を走らせた。
「え……?」
その目が丸くなる。
コラムは、粗野とすら言えるほどの簡潔な文章で、猫について語っていた。
猫は自分の生き方を嘆いているか? 焼けた尾を悲しんでいるか? とコラムは読み手に問うてくる。
お前には猫の誇り高い姿が見えないのか、と。
ぴんと立った尾に、燃えるような生命力を感じないか、と。
その孤高の魂に、一片の憐憫の介在する余地はあるか、と。
恐ろしく傲慢で、恐ろしく鮮烈な文章。
「これ…っ…!」
反射的にゾロを見上げた。
今は優しくサンジを見るゾロの目の奥に、あの頃、絶えず満ちていた、手負いの獣のような光。
傲慢で不遜で、何者にも屈しない抜き身の刃物のような矜持。
そのくせ、どこか脆いのではないかと思わせる危うさ。
そんなにも高く空を飛んでいたら、その身を太陽に焼かれてしまうに違いないのに。
どれほどこの猫の生き方が崇高であったとしても、この尾が痛くないはずはない。
この尾を焼かれた時、猫は断末魔の絶叫を上げなかったはずがない。
激痛にのた打ち回りながら、それでも死よりも生を勝ち取った猫。
それを、憐れむ必要などないと切って捨てる、その潔さ。傲慢さ。強さ。…弱さ。
─────このコラムを書いたのはゾロだ。
直感的にそう思った。
文章から伝わってくる、ゾロと同じ色。同じにおい。
─────え、でもなんで?
「なんでゾロが、雑誌にコラムなんて書いてるの?」
「あ?」
思わず呟いたサンジの言葉に、ゾロが間抜けな返事をする。
「…なん、で、俺が書いた文章だとわかった…?」
「え、違うの?」
「いや、違わねェ。違わねェが…。」
ゾロが焦ったように頭を掻いた。
─────わァ、ゾロが照れてるとこなんて初めて見た。
ゾロはひとしきり決まり悪そうに視線を彷徨わせてから、サンジに視線を戻した。
「あー…、この雑誌は、ヒナ…あのピンクの髪の女が、編集してる雑誌だ。」
「へぇ…。」
「んで、この写真は、あの葉巻二本咥えてるおっさんが撮った。」
言われて、サンジはヒナとスモーカーを振り向いた。
ヒナは、サンジが振り向いたのに気がついて、にこっと微笑む。
スモーカーは、大口を開けてガトーショコラを食べるところだった。
ゼフの作ったガトーショコラは、小麦粉を一切使っていない。
純度の高いチョコだけを使って作っているから、お客様に出す時には、10秒だけチンする。
冷蔵庫から出したてだとチョコレートが硬くなっているから。
10秒だけチンすると、チョコレートが程よくとろけて、しっとり濃厚な生チョコの風味が口の中に広がる。
あまり甘くなく仕上げたそれに、ふんわりと良質の生クリームをたっぷり添えてある。
生クリームと一緒に食べるもよし、ショコラだけのカカオの香りを楽しむもよし、生クリームをコーヒーや紅茶に落としてウィーン風を楽しむもよし、のお楽しみデザート。
ヒナは、さすがに女の人はケーキを食べ慣れていて、上品に口に運んでいる。
合間にお茶を飲んで、じっくりと味わってるところを見ると、口の中でチョコとアールグレイの溶け合う風味を楽しんでいるのかもしれない。
スモーカーは、男の人はケーキが苦手な人も多いと思うのだが、いかにも嬉しそうに食べている。
さっきはその筋の人かと思ったが、口の回りを生クリームだらけにしながらガトーショコラを頬張る姿はいい歳をした大人とも思えないほどおちゃめな姿だ。
─────雑誌の編集さんとカメラマンかぁ
あまりお目にかかれないオシャレ職業に、サンジは素直にミーハー気分で視線を送る。
そうしながら、つくづくとゾロは面白い人脈を持ってるなあと思う。
ルフィやウソップもそうだが、こういう人達とゾロはいったいどこで知り合うんだろう。
女の人の方は、多分、ゾロの彼女のうちの一人なんじゃないかなあとは思うけど。
それにしたってまず知り合わなくちゃ彼女にもならない。
サンジはもう一度、手元の雑誌に目を落とす。
─────ゾロ、こんなコラムなんて書けたんだなぁ…。いつからこんな仕事してたんだろ…。
一緒にいた頃、ゾロがそれらしき書き物をしているところなんて、見た事がなかった。
いつもは何を考えているのかわからないゾロが紡ぎだした、まるで太刀筋のような一閃の文章。
さっきは吐き気を覚えるほど痛々しく見えた猫が、これを読んだ後だとまるで違って見える。
雄々しく、誇り高く、貪欲に生をむさぼるしたたかな命に見える。
その一方で、どこか……どこか、寂しい。
この強く傲慢な文章は、何の飾りけもなく読み手の心を斬ってくる。
それはいっそ清々しいほどの潔さを纏わせてすらいるが、同時に、確実に読み手の中の何かを斬り捨ててもくる。
本当は目を向けなければいけない何か、をいらないもののように斬り捨ててくる。
それが、心の片隅でぼんやりとした不安を形作る。
それが何なのか、サンジにはよくわからなかったけれど。
「サンジ。」
呼ばれてサンジは顔をあげる。
「あのおっさんは、今度、撮影でちょっとばかし海外に旅に出る。…俺はそれについていく。」
「え……?」
その瞬間、すうっとサンジの周りから音が消えた。
脳天から冷たいものが落ちてくる。
「ど…いう…こと?」
頭ががんがんする。
「あのおっさんが写真を撮って、俺がこんなふうに何か書く。ヒナはそれを雑誌に載せたいそうだ。」
まるで人事みたいに、ゾロが言う。
「だから、ちょっと…しばらく留守にする。」
「し…ばらく…って?」
「一年したら帰ってくる。」
サンジが大きく目を見開く。
「いち…ねん……?」
問い返した声は、みっともないほど動揺していた。
「なん…なんで…、一年…て…、ど、して…。」
気がつくと、サンジは、ゾロの腕を硬く握り締めていた。
その手ががたがたと震える。
「サンジ。」
ゾロの手が、縋りつくサンジの手を優しく外して、両手で包む。
「お前がうちを出て行く前…、お前が、俺の事を幸せにしたい、って言ってくれたの、覚えてるか?」
唐突に聞かれ、サンジは呆然としたまま頷く。
「今の俺じゃな、まだお前に幸せにしてもらえねぇんだ。」
ゾロが静かに告げる。
その目は優しくサンジを見ている。
「もう少し…まともになれるように頑張ってくっから…。」
言葉に少し苦笑が混じる。
「…そうだな…。火に手を突っ込まなくても、熱さがわかるようになるくらいには。」
そこで、ほんの少し言葉を切る。
「だから……………」
言いかけて、やめる。
サンジは、“だから、”のあとに続く言葉をしばし待ったが、それはゾロの口から出てくる事はなかった。
「…待ってる。」
だからサンジは、たぶん、ゾロが言いよどんだであろう言葉を、継いだ。
ゾロの瞳が動揺するように、揺らぐ。
「一年、だぞ?」
「何年たっても、俺はゾロが好きだ。」
きっぱりと言い放つ。
そんなサンジを見るゾロの目が、一瞬、眩しそうに眇められる。
「いつまでもゾロが好きだ。ずっと好きだ。誰よりも好きだ。ずっと…、ゾロだけが好きだ…ッ…!」
その蒼い瞳に涙が盛り上がる。
すぐにそれはぽろぽろと頬を伝って滴り落ちた。
サンジの手を握るゾロの手に、力が篭もる。
「ずーっと、言い続けてくれたな。お前。それ。」
囁くような優しい声でゾロが言う。
「俺はお前にそれを告げる度胸もねぇのに…。すげぇな、お前。」
小さく笑う。
そんなことない、と言いたいのだが、口を開いても嗚咽だけになりそうで、サンジはぶんぶんと首を振る。
サンジの両手を包んだゾロの手が熱い。
ぎゅうっと強く握り締めてくる。
手じゃなくて。
この体を抱きしめてほしいのに。
歯を食いしばって、嗚咽を耐える。
けれど涙はあとからあとからあふれてくる。
「帰って…くるんだ、よね?」
「…ああ。」
「絶対、帰ってくるんだよね…?」
「ああ。…約束する。」
約束。
その言葉を聞いて、サンジはやっと笑顔を作る。
けれどうまく笑えず、涙も止まらず、おかしな顔になった。
サンジの顔を見て、ゾロが僅かに眉を顰める。
ゾロの手が、サンジの手からそっと離れて、サンジの頭を宥めるように撫ぜた。
泣くな、というふうに。
だからサンジは、必死で笑顔を作った。
それでもまだ、変な泣き笑いの顔しか作れなかったけれど。
壊れた蛇口になってしまったみたいに、涙も止められなかったけれど。
「…俺の話はそんだけだ。」
そう言って、ゾロは出されたコーヒーを一気に飲み干すと、「ごっそさん」と言って立ち上がった。
そのままドアの方へ向かうのを見て、ヒナが、
「帰るの? ゾロ。」
と聞いた。
ゾロは振り向かず、「ああ。ゴチソーサン。」と背中越しに手を振る。
呆然とカウンター席に座っていたサンジは、それを見て我に返った。
「ゾ、ゾロっ…!」
慌ててゾロに駆け寄る。
「あのっ…ありがと…、きてくれて…」
ゾロが振り向いてサンジに笑顔を見せる。
「ゾロ…っ…。」
それでも尚、サンジはゾロに追いすがる。
どうしよう。
どうしよう、ゾロが行ってしまう。
引き止める事なんかできないけど
わかってるけど、でも
どうしよう
ゾロが
不意にゾロが体ごとサンジに向き直った。
驚くサンジの体を力任せに引き寄せる。
サンジが目を見張る。
次の瞬間、サンジは、ゾロに力いっぱい抱き竦められていた。
息が止まってしまいそうになるほど、強く。
ゾロの手がサンジの髪をかき混ぜる。
耳元でゾロの荒い息遣い。
けれどキスはこない。
ただひたすらに強く、熱く、荒々しい抱擁。
すぐにその体は、唐突に離れていく。
突き放すようにゾロは身を翻して、もう振り返ろうともせずに店を出て行った。
「ゾ─────…」
呆然と、棒立ちになったまま、サンジはその後姿を見つめる。
全身を包んだゾロのにおいが、ゆっくりと消えて行くのを感じながら。
2006/06/13
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