■ 最終話 ■ 発情☆ア・ラ・モード/玉撫子薫


【3】

 

その街は夜になると目覚める。

昼間は閑散としていて人けのない通りが、夜になると一変する。

きらびやかなネオン。

溢れかえる酔っ払いたち。

カウンターだけの小さなバーから、いかさま賭博が横行しているカジノから、妖しげな夜の蝶たちの舞うキャバレーまで、様々な人間の欲と本能を、この街は内包している。

 

まるで子供がめちゃくちゃに積み木を並べたように、所狭しと風俗店のビルが乱立した歓楽街の一角、七階建てで、上から下まで、バーやらクラブやらがごちゃごちゃと詰め込まれた雑居ビル。

その2階に、フレンチレストラン「バラティエ」はある。

そのビルの他の店には、ビルのエントランスのエレベーターから行くようになっているのに、バラティエだけは、ビルの中に入ってしまうとたどり着くことが出来ない。

バラティエへ行きたい時は、ビルのエントランスに入らず、いったん外に出て、ぐるりとビルの側面の路地に入る。

そうするとそこに入り口があって、人一人がやっと通れるような狭い階段がずうっと2階まで続いている。

もうすっかり擦り切れてぺったんこになっている、元は多分品のいい紅だったんだろう、褐色のカーペットの階段を上って行くと、そこに小さく飾り文字で「restaurant BARATIE 」と書かれた年期の入った木の扉がある。

そのドアを開けると、カウンターが9席、テーブルが9卓しかない小さな小さなレストランがある。

 

眼光の鋭い、なんだかよさ毛のオーナーは、そこらへんのチンピラなら足先であしらえるほどの蹴り技の持ち主で、気性は荒いが、料理の腕前は一流だ。

店は狭くて小さいが、本格的なフレンチを出してくる。

ことにそのポタージュ・クレール( コンソメスープ )のすばらしさと言ったら、著名な料理研究家もお忍びで通っているというほどで、ちょっとした隠れ家レストランになっていた。

 

 

そんなレストラン「バラティエ」に、最近、年若いウェイターが入った。

 

 

 

バラティエは、開店してから、一度も弟子を取ったことも、アルバイトを雇ったこともない。

弟子入り志願は何人かいたが、オーナーは誰一人雇うことなく、ずっと一人でこの店をやってきた。

なのにある時から突然、一人の少年が店で働き始めるようになった。

 

 

客たちは最初、その少年を“ウェイトレス”だと思った。

それほどに、少年の外見はたおやかで優しげだった。

年は16、7だろうか、いまどきの若者っぽく金髪で、けれど、近くで見ればその金髪は本物だと知れる。

バラティエのオレンジ色の薄暗い間接照明の下ではわかりにくいが、その瞳は海を映したようなブルーだ。

少年の、少女と見紛うほどの線の細い外見にうっかり心惹かれた客達は、その直後に、オーナーをしのぐほどの気性の荒さに度肝を抜かれた。

 

「このクソガキが! 材料は全部同じ大きさに切れって言っただろうが!」

「同じだろうが!モーロクジジィ!」

「どこが同じだ! てめェの目はビー玉か! ビー玉ならくり貫いて祭の露店で売っちまえ!」

「なんだと、このボケ老人! 垂れ流す前にオムツあててやろうか?」

「オムツならてめェがあてろ、このひよこが! ぴよぴよ鳴いてりゃいいってもんじゃねぇぞ!」

「ひよこじゃねぇ! クソジジィ! 死ね!」

「俺は死なん! あと100年生きる!」

 

彼が勤め始めてから、オーナーと彼が怒鳴りあう声を聞かない日がなくなった。

 

最初のうち、客達はハラハラしながらその怒鳴り合いを聞いていた。

だが、それがあまりにも毎日毎日のことで、しかも少々怒鳴られようが叱られようが、ひ弱な外見に似合わず根性の座ってるらしい少年が店を去る様子もない、と知れてからは、客達は、次第にそれを、「少々過激などつき漫才」と、娯楽に受け止めるようになっていった。

 

少年の仕事はウェイターばかりではなかった。

くるくると狭いホールを身軽に回って客の注文をとった後、少年はすぐ厨房に入る。

オーナーと並んで包丁を握る。

あるていどの素地はあるらしく、少年は包丁を握る事に慣れているようだったが、それでもそれは、まだまだプロの域には遠いものだ。

それをオーナーは、容赦なくどつき、蹴り倒しながら、強引に少年にプロのやり方を教え込んでいた。

もちろん料理そのものはまださせてもらえないらしく、少年の仕事は野菜を洗ったり、それを切ったり、皿洗いをしたり、そんなものだ。

注文をとりにくる少年の手は傷だらけで、手のひらは火傷したのか、真っ赤になって皮が剥けていた。

それでも少年は、いつバラティエに来ても楽しそうに働いていた。

包丁を握ることが、厨房に立たせてもらえる事が、楽しくて楽しくて仕方がない、という顔だった。

 

「彼はオーナーの息子さんか何かなのかい?」

幾人かの客に聞かれることもあったが、オーナーはそのたびに、

「俺はあんなガキこさえた覚えはねぇ。」

と一蹴した。

 

 

□ □ □

 

 

 

サンジの朝は早い。

毎朝決まった時間になると、お隣さんからものすごい大喧騒が聞こえてきてサンジはとび起きる。

一体何をやっているのかは知らないのだが、必ず毎朝同じ時間に、大声で怒鳴りあうような騒音が、隣の外人さん達の部屋から聞こえるのだ。

最初こそその音量に度肝を抜かれたサンジだったが、最近じゃ慣れたもんで、「あ、朝か。」としか思わなくなった。

というか、それがあんまりにも毎朝正確に同じ時間なので、もはやすっかり目覚まし代わりだ。

何語なのか、サンジにはわからない筒抜けの大声を聞きながら、サンジは布団から這い出した。

布団を畳んで、小さな流し台で顔を洗って、歯を磨く。

着替えてジーンズの尻ポケットに財布を捻じ込んで部屋から出ると、ちょうど、隣の外人さん達もがやがやと騒ぎながら外に出てくる。

「おはようございます。」

と、日本語で挨拶すると、彼らも笑顔で

「オハヨーゴザイマス。」

と、ぎこちない日本語で返してくれる。

外人さん達の方とは逆の隣には、爺さんが一人で住んでいるが、朝はいつも遅いらしくて、この時間に会った事はない。

爺さんってのはみんな早起きだと思い込んでいたサンジは、引越してきたばかりの頃は、毎朝、死んでるんじゃないかと心配したものだ。

だってなにしろ、毎朝のこの騒音でも起きないらしいから。

 

そんなアパートを後にして、サンジが早朝から行く先は、バラティエだ。

 

バラティエの開店は11時30分からだから、いくらなんでもこんな早い時間から行く必要はない。

にもかかわらず、サンジは毎朝、起きたらすぐバラティエに通う。

何故なら、ここの料理長が店に住み込んでいるからだ。

 

バラティエのオーナー、ゼフは、もう20年以上店に寝泊りしている。

帰る家がないのか、そもそも家族もいないのか、ゼフは何も話してくれないので、サンジは知らない。

けれど、オーナーが店に寝泊りしていると知った時から、サンジはこうして毎朝バラティエに通うようになった。

朝の歓楽街は、夜の華やかさとはうってかわって、小汚く、閑散としていて人けもない。

それでも、朝5時までなんて店もあるから、時折ビルのあちこちから夜の名残を纏いつかせた黒服のお兄さん達が、疲れきった顔でよろよろとさ迷い出ては帰途についている。

もう顔見知りになった黒服さんに、「お疲れ様っす。」と挨拶をして、サンジはビルの階段を駆け上がった。

渡されている合鍵でバラティエの扉を開ける。

扉を開放して、店内の窓も全部開けて、朝の空気を入れる。

それから厨房に入って、味噌汁を作り、ほっけの開きを焼き、だし巻き卵を焼く。

ご飯は昨日のうちにタイマーを仕掛けてある。

客席の一つに、それらを配膳すると、サンジは、店の奥のドアを開ける。

そこに、2畳ほどの狭い部屋があって、ゼフが大の字になって寝ている。

布団を敷きもせず、板の間に平気で寝ている。

たぶん、20年ずっとそうだったのだろう。

「ジジィ! 起きろ! 朝飯だ!」

大いびきのオーナーに向かって、サンジは本気の蹴りを繰り出す。

が、会心のはずのその蹴りは、寸前でそれ以上に凄まじい蹴りで横薙ぎに払われた。

サンジはバランスを崩して倒れこむ。

「まだまだだな。」

と言いながら、ゼフがのっそり起き上がった。

悔しそうに歯噛みするサンジの横を涼しい顔で通り過ぎて、ゼフは食卓に向かう。

「お、ほっけか。」

目を細めながら、ゼフがテーブルにつく。

それを見て、サンジもしぶしぶ立ち上がり、いったん厨房に入って味噌汁の入った片手鍋を持ってきた。

今日はアサリのお味噌汁。

それを椀に注ぎ、飯を茶碗によそう。

差し向かいに座って、二人で仲良く「いただきます」と頭を下げてから、朝食は始まる。

 

朝食を作ることそのものが、サンジにとっては既に修行の一環だ。

バラティエで勤め始めてから、賄いは全てサンジの担当になった。

サンジの作る料理は全て、ゼフの口に入る。

そして、全てにおいて細かくチェックされた。

「米を研ぐときは水は惜しむな。一回目の水はすぐに捨てろ。米にぬか臭さが移る。手早く丁寧に。」

「はい。」

客前ではぽんぽん言い返すサンジは、二人きりだと神妙な顔で頷く。

ゼフは一度きりしかアドバイスをくれない。

次に同じ失敗をすると容赦なく蹴られるのだ。

本当は、言われたことは全てメモに取りたい。

だがゼフはそれを許さない。

「メモなんざ取るんじゃねェ。頭に叩き込め。体で覚えろ。」

それがゼフの教え方だった。

だからサンジは、一言一句聞き漏らさぬよう、全神経を張り詰めさせてゼフの言葉を聞く。

 

材料は同じ大きさにそろえて切れ。

米を研ぐとき水は惜しむな。

包丁を金属たわしで擦るな。

ステーキ肉は叩くな。

ごぼうの皮は薄くむけ。

カブの皮は厚くむけ。

味見は何度もするな。

 

“多少料理のできる素人”を“料理人”に育て上げるための、いくつもの言葉。

それをサンジは必死になって自分に覚えこませる。

 

「このほっけうめェな。」

ゼフがもごもご口を動かしながら言う。

「サピーさんが売りに来てたから。」

「おお、あの親父生きてたか。」

「この開きも、“機械乾燥なんかじゃねぇぞ。天日干しだぞ”って言ってた。」

「食えばわかる。」

ぶっきらぼうに、それでも嬉しそうに目を細めて飯をかっこむゼフを見ながら、サンジは心の中にほのぼのと灯る温かな想いを抱きしめる。

誰かが、おいしいと言って自分の作った料理を食べてくれる。

その事がこんなに嬉しい。

 

─────ゾロは、おいしいなんて一度も言ってくれた事なんてなかったけど、でも、俺の作った飯を残した事もなかった。

 

うまい、とも、まずい、とも言わず、ただ黙々と食べるゾロを、いつもいつもサンジは、その僅かな表情の変化だけでゾロの好物を探そうと、食い入るように見つめてきた。

甘い味付けよりしょっぱい味付けの方が好き。

ごま油はちょっと苦手。

でもごま塩は好き。

かぼちゃの煮付けは嫌い。

煮魚より焼き魚の方が好き。

一つ一つ、きらきら光る小さなビー玉を集めるように、宝物のように大切に大切に心の中に集めて。

 

それは甘苦しく、せつなくて、胸の奥がつぅんとするような、幸せだった。

 

「どうした?」

 

ゼフの声で、サンジははっと我に返った。

思わず苦笑する。

 

まったく…、こんな風にふと気がつくと、頭はいつでも勝手にゾロのところに飛んでいってしまう。

 

「ん…、ゾロにもうまいほっけ食わせてやりてェなあって。」

苦笑したままそう答えると、ゼフはとたんに不機嫌そうな顔になった。

「あんなチンピラの事なんざ、もう忘れちまえ。」

吐き捨てるようにそう言う。

それでまた、サンジは困ったように苦笑した。

 

ゼフはゾロの事を快く思っていない。

 

バラティエで勤め始めた時、サンジは、自分の“女装して援助交際をちらつかせて男を釣って財布をひったくっていた”という過去を、ゼフに話すべきかどうか、そりゃもう悩んだ。

ゼフは、学歴も肩書きも経験もないサンジを、雇い入れてくれ、アパートの保証人にまでなってくれた。

調理師学校に行った事もない素人を、ゼフは蹴り飛ばしながらも愛情をもって接してくれる。

その恩は計り知れない。

この人の前で、嘘は何一つつきたくないと思った。

同時に、だからこそ何もかもを包み隠さず告白して、ゼフに軽蔑されるのが恐かった。

 

ひったくりは犯罪だ。

サンジの過去は犯歴だ。

 

それを告白する勇気を、サンジは持ち合わせていなかった。

 

けれど、結論から言うと、サンジのそれは杞憂だった。

ゼフはサンジの事など既に知っていたのだ。

援助交際を装ってひったくりを繰り返す女装少年、は、サンジの認識よりもずっと、この界隈では噂になっていた。

ゾロに至っては、相当に有名なチンピラだったらしい。

ゼフは、初対面の時から、サンジを“噂の女装少年”だと知っていた。

最初から何もかも知っていて、ゼフはサンジを雇ってくれたのだ。

 

改めてゼフに恩義を感じたサンジは、けれど同時に、ゼフの誤った認識にも気がついた。

 

ゼフの認識では、ゾロは、“いたいけな未成年を誑かして犯罪の片棒を担がせる非道な極悪人”、になっていた。

いくらサンジが、違う、そうではない。と言っても、ゼフは聞く耳をもたなかった。

この街に長く生きているゼフは、サンジの知らなかったゾロの噂もいっぱい知っていて、だから、

「てめェは誑かされていいように駒にされただけだ。」

と言った。

 

オトナの目から見たら、それは確かにその通りなのだろう。

確かにサンジは、ゾロの言うがままにスカートを履いて、ピンクのグロスを引いて、男達の財布をひったくっていた。

ゾロの言う事なら何でもやった。

ゾロはサンジに、売春のようなことをさせた事は一度もなかったけれど、もしゾロにやれと言われていたら、たぶんサンジは従っただろう。

それを誑かされている、と言うのなら、それはそうなのかもしれない。

だが、サンジにはもちろん、ゾロにだまされていた、などという意識はない。

ひったくりも、犯罪だと認識してやっていた。

あの日々は、確かに、世間の良識から見たら、反社会的な爛れた日々と呼ぶのかもしれないけれど、サンジにとっては、大切な、かけがえのない日々だった。

ゾロも…、サンジにとってはこの世でただ一人のかけがえのない人間だ。

例え、世間からは疎まれる類の人間であっても。

 

それだけは、ゼフにわかってほしかった。

 

 

だからサンジは、それから積極的に、話題にゾロの名を出すようになった。

ゾロを思い出したらすぐ話したし、恋しくなったら恋しいと言うようにした。

もっとも、意識せずとも、ゾロの名は世間話の中に頻繁に登場したけれど。

それほどに、サンジの中はゾロでいっぱいだったから。

そうやって、サンジは、自分にとってゾロがどんな存在だったか、あの日々がどんな日々だったか、ゼフにゆっくりわかってもらおうと思っていた。

今のところ、それが成功しているかどうかは、微妙だったが。

 

忘れちまえ、と言ったゼフに曖昧な笑みを返して、サンジはご飯を頬張った。

 

忘れるなんて、きっと一生できない。

だってあれは一生分の恋だった。

16年しか生きていない人生の一生分なんて、オトナから見たら取るに足らないものかもしれないけれど。

でも、こんなにまでサンジの心を絡め取ったのは、ゾロだけだった。

泣き叫ぶほど欲したのは、ゾロだけだった。

母親が出て行ったときも涙一つ零さなかったサンジが、号泣しながら追いすがったのはゾロだけだった。

 

例え今のこの気持ちが、若さゆえの勘違いだったとしても、こんなにも深く激しく誰かを愛したという記憶だけは、きっとどんなに歳をとっても忘れない。

 

もしこの先、ゾロを愛することがなくなったとしても。

ゾロじゃない誰かを愛するようになったとしても。

そんな日が来るとは思えないけれど。

でも、もし、来たとしても。

 

きっと、想いの記憶だけは消えない。

 

 

「人を好きになるって不思議だよね、ジジィ。」

 

そう言って小さく笑ったサンジを、ゼフはやはり仏頂面で見ていた。

 

2006.5.5

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