■ 最終話 ■ 発情☆ア・ラ・モード/玉撫子薫


【2】

 

「それでね、ゾロ。こちらがスモーカー君。スモーカー君、これがあなたのご所望のロロノア・ゾロ。」

 

女にそっけなく紹介された相手を見て、ゾロは内心訝しんだ。

この女の本業は雑誌編集者だったが、この女の持ってくる“仕事”は、今まで、ほとんどが本業とはかけ離れた、ゾロの“下半身”への仕事ばかりだった。

雑誌編集者ってな女衒をやるのか、とゾロはこの女を揶揄したこともある。

女衒っていうのは、女を遊女屋に売る者の事を言うのよ、あなたのどこが遊女なのよ。と、言い返された。

ロビンも、そもそもはこの女の紹介だ。

だから、この女が、「今度あんたに仕事頼みたいっていう人と会わせてあげる」と言ってきた時も、てっきりまた、欲求不満の人妻でも紹介されるのかと思っていたのだが。

 

ゾロは胡乱げに、スモーカーと呼ばれたその男を見た。

 

素肌にジャケットを一枚無造作に引っ掛けた、ガタイのいい男。

やたらと眼光が鋭い。

何故か葉巻を二本いっぺんに咥えている。

どう見てもかたぎの男ではない。

女はやたらと親しげに呼んでいるが、とてもじゃないが、スモーカー“君”などというタイプではない。

 

上から下までじろじろと無遠慮にその男を眺めてから、ゾロは、いかにも嫌そうな目で、「ヒナ」と、女を呼んだ。

「何の冗談だ? 俺はマッチョ掘る気もマッチョに掘られる気もねェぞ?」

ゾロがそう言うと、ヒナはおかしそうに笑い出した。

スモーカーと呼ばれたその男も露骨に顔をしかめる。

「俺にだってねえ。」

低いドスのきいた声は、ますますその筋の人間を思わせる。

なるほど、その様子からすると、ゾロの下半身への仕事じゃないらしい。

じゃあなんだ、運び屋か、鉄砲玉か。

そういう仕事からはもう足を洗ったんだ、と言うつもりで口を開きかけると、スモーカーがヒナを振り向いた。

「おい、これが本当にあれを書いた奴か?」

問われて、ヒナは、艶やかなピンクの髪をかきあげながら頷いた。

「そうよ。正真正銘、この子が書いたのよ。」

この子、と言われて、ゾロが一瞬、眉を聳やかす。

ゾロを“この子”呼ばわりできるのなんて、ゾロの数多の女達の中でもこの女とロビンだけだ。

 

ばさりと、ゾロの目の前に何かが置かれた。

ゾロがそれに目を落とす。

絵や写真が主体になった、いわゆるグラフ誌。

風景や人物や事象、風俗、行事、といった写真やコラムなどが掲載されている。

ヒナの本業だ。

 

無造作に開かれたページには、モノクロの写真が並んでいる。

半裸のアイドルの写真などではなく、どれもやや殺伐とした路地裏の写真だ。

 

─────狭い路地裏を、猫が尻尾を立てて歩いている。

けれどその尾は、根元まで焼け爛れていて、痛々しく赤剥けていて、尾の先は腐って骨が見えている。

 

─────ビルの裏のエアコンの室外機の影で、痩せ細った鳩が卵を温めている。

写真の後方に別の巣があって、仲睦まじいつがいと雛の姿がある。

けれど痩せた鳩の卵は、つがいの相手もなく、一羽きりでただひたすらに卵を温めている。

その卵が孵る気配はない。

 

─────古ビルの窓。蜘蛛の巣に蝶がかかっている。

もがく蝶の体を、蜘蛛は無心に屠っている。

蝶の前足は弱々しく空を掻いている。

蜘蛛は蝶を、まるで恋人でも抱き締めるように、力強くその体に手足を絡め、蝶を喰い続ける。

 

─────車に轢かれて死んだ猫。

潰れた猫の乳房に、子猫が吸い付いている。

子猫は母猫が死んでいる事に気がついていないのか、乳首を放そうとしない。

そのすぐ脇を、車のタイヤが通っていく。

 

 

それらの写真に見覚えがあって、ゾロは、「ああ。」とすぐ思い出した。

いつだったか、ヒナの部屋で見た奴だ。

 

 

その頃、ゾロはヒナの部屋に入り浸っていた。

それはゾロにとってはとても珍しいことであった。

そもそもゾロという男は、女に依存して生きるのをなんとも思っていない。

だが、女に対して思いやりも根気もない上に、干渉される事を嫌うという勝手極まりない男でもあったので、一度寝た女と再度寝ることはなかったし、ましてやその女の部屋に入り浸るなどと言うことは本来ならばありえないことではあった。

ヒナと寝たのだって一度きりだった。

なのに何故か、ヒナの部屋だけはゾロにとって居心地がよかった。

ゾロがヒナの部屋に来る理由の大半は、一度だけ寝た女が彼女気取りで自分の部屋に陣取っていて帰るのが面倒、とか、そもそも帰る金すら飲んでしまった、とか、飲む金もないから、とか、ただなんとなく、とか、そんなろくでもない理由ではあったが、ゾロは何かあればふらりとヒナの部屋に来た。

ヒナの方も、そんなゾロを、干渉するでもなく追い出すでもなく、まるで、ちょっとエサをやったらついてきてしまった野良猫のように扱った。

それは確か、ヒナがゾロにロビンを紹介する頃までずるずると続いたと思う。

 

その日も、ゾロが、いつものようにヒナの部屋に勝手に上がりこむと、ヒナは、部屋中に散らばった写真の真ん中に座り込んで、ああでもないこうでもないと悩んでいた。

雑誌の編集者、というのがどういう仕事をするのか、ゾロにはさっぱりわからなかったが、ヒナがこうして仕事を持ち帰っている現場に遭遇するのは、時々あった。

そして、そういう時のヒナには声をかけないのが、この部屋に自由に出入りするためのルールだった。

だからゾロは、部屋中に散らばった写真に囲まれて、「これじゃあ幅が合わないし…、こっちのじゃ紙面のトーンが変わっちゃうし…。ああもう!」と、苛ついたように長いピンクの髪をかきあげるヒナを横目で見ながら、勝手に冷蔵庫からビールを出して、ソファにごろりと横になった。

ヒナもヒナで、唐突に上がりこんだゾロに視線一つよこさず、パソコンの画面を覗き込んだり、写真に目を戻したり、仕事に没頭している。

ヒナは、ひとしきりうんうん唸って、それでも納得がいかないらしく、ため息をついて立ち上がると、ゾロが今まさに飲もうとして栓を開けたばかりの缶ビールを横からひったくって、一気に呷った。

横から酒を掠め取られたゾロは、一瞬目を丸くして、けれど気にした様子もなく立ち上がってもう一度ビールを取ってきた。

「可哀相な猫よねえ…。」

ヒナが一枚の写真に目を落としながら言った。

肩越しにひょいと覗き込むと、そこには一匹の猫が写っていた。

尾の焼けた猫。

明らかに不自然に尾だけが焼かれていて、そこには人為的な悪意が感じられる。

恐らく、人間に、面白半分に火をつけられたのだろう。

どの写真もどの写真もそんな殺伐としたものばかりだったが、この写真は一段と痛々しい。

ヒナが眉を顰めて呟いたのも無理からぬことだった。

けれど、ヒナの後ろからその写真を覗き込んだゾロは、心底不思議そうな顔をして、「そうか?」と言った。

ヒナが、信じられない、とでも言うように振り向く。

「あなたは、この写真を見ても何も感じないの?」

その口調に咎める響きを感じて、何故かゾロはほんの少し矜持を引っかかれた。

それがいつもよりもほんの少しゾロを饒舌にした。

「こいつは自分の不幸を哀れんでるか? 焼けた尻尾を嘆いているか? こいつは生きることしか考えてない。尾は痛むかもしれないが、その痛みこそが生きている証だ。痛みを感じてるうちは生きていけるって事だ。こいつは傷つけられてもけなげに尾を立てて歩いてるわけじゃない。生きていくのに尾を立てるやりかたしか知らないだけだ。それ以外にこいつには何の意味もない。それを哀れむのは人間の感傷でしかない。或いは罪悪感とかな。」

いつになく淀みなくそう言ったゾロを、ヒナは、束の間、珍しいものを見たような目で、見上げた。

しばしそうしてぽかんとした顔でゾロを眺めてから、急に我に返った。

 

「ゾロ。あなたそれ、書いてみない?」

 

ヒナが言い出して、だからゾロは、その時思った事をそのまま文章にして書いた。

 

 

 

今ゾロの目の前には、その時ゾロが書いた文章が載った雑誌がある。

ゾロの書いた文のすぐ横に、あの、尾の焼かれた猫の写真がある。

「これ書いたのはお前だろ。」

スモーカーに問われて、ゾロは、「ああ。」と答えた。

よく見ると、誤字や文体が細かく修正されていて、ゾロは微かに苦笑した。

 

「お前、俺と一緒に仕事する気ねぇか?」

唐突にスモーカーに言われて、ゾロは、「あ?」と顔を上げた。

 

「この写真、撮ったのは俺だ。」

 

その言葉は、意外なほどゾロの腑に落ちた。

なんとなくそんな気がしたのだ。

この写真の、淡々と日常を切り取っているくせに鋭く抉るような鮮烈さと、目の前の男の、穏やかなのに物騒に纏った“気”は、言われてみればよく似ていた。

ゾロはいったん写真に目を落として、もう一度視線を上げて、スモーカーを見た。

スモーカーは、無遠慮なゾロの視線を真正面から受け止めて、身じろぎひとつしない。

「俺ァそもそも写真を撮るだけの男だ。撮った写真がどう料理されようと興味はない。」

葉巻を咥えなおしてスモーカーが言った。

「まあこいつの、」

と、くいっとヒナを親指で指す。

「雑誌だからな。どうせ社会派チックな、冷たい都会だの人間のエゴだの、そんな感じに扱われるだろうなと思ってたんだ。」

スモーカーの言葉に、ヒナが少し、ふん、と鼻を鳴らした。

「だから正直こいつァ、」

とんとん、とスモーカーの指がゾロの文章を叩く。

「意外だった。」

ゾロは黙って聞いている。

「この文章ひとつで、ページ全体の印象ががらりと変わっちまった。この猫は人間のエゴで死んでいく哀れでか弱い存在から、死ぬ瞬間まで貪欲に生を貪る雄々しい命に生まれ変わった。」

スモーカーの言葉に、次第に熱がこもっていくのが、ゾロにもわかった。

淡々とした口調の中に、どこまでも熱いものを秘めている男なのだと知れた。

「文章そのものはまだまだ稚拙だが、てめェの文章には力がある。鋭利な刃物のように対象を深く抉り込む感性がある。それも華奢なナイフじゃねェ。太刀だ。読む人間の心を袈裟懸けにする大振りの太刀だ。だから文そのものはヘタクソなのに、人を惹きつける。」

「随分…買ってくれたもんだ。」

内心の面映さをごまかすように、ゾロは苦笑して見せた。

だが、スモーカーの真摯な瞳は変わらない。

「俺はお前の紡ぐ世界を写してみたい。」

スモーカーの言葉に、ゾロの心臓が、どくん、と一つ鳴った。

 

その瞬間、ゾロの内心に湧き上がってきたものは、ぞくぞくするほどの「欲」だった。

 

自分の力を試してみたい。

自分の言葉を紡いでみたい。

自分でも知らなかった自分自身の可能性を知りたい。

 

自分に対しての、抑えようもないほどの、「欲」。

 

この男についていけばそれが叶う。

 

だけど。

 

ゾロは、自分を見出だしてくれようとしている男の目を真っすぐに見据えてから、一旦視線をテーブルの上に落とした。

そして、開かれたページの自分の文に目を走らせる。

淡々と書かれた文章には、驚くほど温度がない。

確かに自分が書いたはずのそれを、ゾロは、傲慢な文章だと思った。

 

 

 

「…俺はもう、こういう文章は書けねェが、それでも構わねェか?」

 

 

 

静かに問うと、目の前の男が、僅かに瞠目した。

 

今のゾロは、もうこれを書いた時のゾロとは違う。

猫に対して可哀想、などとは今も思わない。

けれど今のゾロの目には、それ以上の、あの時見えなかったものが見えてしまうのだ。

 

猫は尾を立てて歩いていく。

彼は生きるために歩いていく。

だがその焼けた尾は、根元まで完全に焼け爛れていて、一部はどす黒く炭化している。

恐らくそこから壊死が始まる。

程なくその毒素は全身に回るだろう。

遠くない将来、猫はこの焼け爛れた尾が原因で命を落とす。

だが、猫は死ぬ間際まで生き抜くだろう。

自らの命が消えようとしているのもわからず生き抜こうとするだろう。

いや、生き抜こう、という強靭な意志では多分、ない。

生きているから、生きるのだ。

猫はただ淡々と、自らの生を全うするのだ。

そうして燃え尽きる命を、今のゾロは、ほんの少し、ほんの少しだけ、悼んでしまうのだ。

 

猫は何故、尾を焼かれたのだろう。

面白半分に火をつけられたのか、なにか予想も出来ないトラブルにあったのか。

誰に、その尾を焼かれたのだろう。

見も知らぬ非道な輩か、或いは、その愛を露ほども疑いもしなかった者の手によってか。

猫は最初から路地裏の猫だったのだろうか。

人間のぬくもりに包まれたことはなかったろうか。

温かな手のひらでくるまれたことはなかっただろうか。

 

そんなことをほんの少しだけ。

ほんの少しだけ、思ってしまうのだ。

 

この死に逝く猫は、まばゆいふわふわしたものに包まれる心地よさを知っていただろうか、と。

 

それは、たぶん、サンジに教えられた感情だ。

サンジが、そのありったけでゾロを包んでくれたから知り得た感情だ。

 

今のゾロに、“痛みを感じてるうちは生きていける”、等と、臆面も言い捨てることは、多分もう出来ない。

 

それをどう伝えようかとゾロが逡巡していると、スモーカーの目が静かに笑った。

「なるほど…。」

得心したようなその声に、ゾロが驚いて顔を上げる。

「俺が初めてお前の書いたもんを見たとき、着眼点が面白いし鮮烈で前向きだが、同時に酷くいびつなところがある、と思った。」

スモーカーの言葉にどきりとさせられる。

「潔いっちゃ聞こえはいいが、お前のそれは、他者を寄せ付けない冷たさだ。自分が生き抜く為に、他のすべてのものを切り捨てるような、冷酷さだ。」

その通りだ。

それは今までの自分の生き方そのものだ。

「なんだか知らねぇが、俺はお前のそういうところが惜しくて仕方なくてな。こいつの心にもっと深みが出てきたら、いったいどんな文章を書くようになるんだろうと…、それを俺はお前に伝えたかったんだが…、俺なんかがでしゃばる前に、誰かがもうお前にそれを教えたみたいだな。」

じわりと、ゾロの心に、スモーカーの言葉が沁み込んでくる。

 

緩く目を閉じると、金色の残像が見える。

きらきらと柔らかく光を返して、ふわふわと暖かく、優しく、どこまでもゾロを受け入れてくれた、あの金色。

何度も傷つけたのに。

手元に置いたくせに、顧みもしないでないがしろにして、そのくせ独占欲で振り回して。

何度も傷つけた。

何度も泣かせた。

なのに、ただの一度も、揺らぐことも怯むこともなかった、あの蒼い瞳。

目を閉じるだけで、あの存在はゾロの中でこんなにも鮮やかだ。

 

サンジ。

…顔が見てぇな…。

 

でも、まだ、だ。

今の自分では、まだサンジに会いに行くことは出来ない。

 

自分にはまだ、欠けたものがある。

 

我知らず、ゾロは拳をゆっくりと握りこんだ。

幼い頃、この手の中に小さなひよこを握りこんだ時のように。

あの時のゾロは、この手の中の命を持て余し、殺してしまった。

柔らかく確かな、命の手ごたえが怖くて。

必死でもがいて生きようとする命が怖くて。

弱いくせに鳴き続ける甲高い声がどうしようもなく癇に障って。

 

そしてゾロは、同じ事をサンジにもしようとした。

 

愛しかったのに。

大切だったのに。

 

失うところだった。

 

なのにサンジは、ゾロの全てを許容し、受け入れてくれる。

傍にいない今この瞬間ですらも。

 

 

「惚れてんのか?」

 

 

スモーカーに聞かれて、ゾロは我に返った。

一瞬、なにを聞かれているのかわからないほど、自分の中に入り込んでいた。

 

─────惚れてるのか…?

 

「よく…わからねェ。」

 

僅かな逡巡の後、ゾロが正直にそう答えると、スモーカーはだしぬけに、げらげらと笑い出した。

「よくわからねェか! そりゃいい!」

ゾロがむっとしてスモーカーを静かに見据える。

小さくため息をついて、それまで黙っていたヒナが、

「…あの時のあの子なの?」

と聞いてきた。

ヒナにサンジを会わせたことがあったか?と首をかしげて、ゾロは、記憶の中に蘇ってきたそれに、思わず舌打ちした。

 

─────そうだ、ヒナと飯を食いにファミレスに行って、サンジがエースといるとこに出くわして…、俺は逆上して、サンジを殴ったんだった。

 

それを、ヒナに見られていた。

あの頃、サンジはまだ女装していた。

傍目には、か弱い女をゾロがいきなり殴りつけたように見えたろう。

ゾロの酷い捨て台詞に、サンジは悄然としてエースと連れ立って行った。

あの後だ。サンジがいきなり「俺は俺に戻る」と言って、スカートを穿くのをやめたのは。

 

「戻ってきたのね。あの子。」

「…いや…。」

ヒナが言っているのは当然、“あの時”の事であろう。あの後、なら、確かにサンジはすぐに戻ってきた。

だが、今はもうサンジはゾロの手元にはいない。

飛んでいってしまった。あの鳥は。

 

「…………………迎えに…いくんだ。俺が。」

 

「…あなたが?」

 

意外そうな顔で、ヒナが言った。

目を丸くしてゾロを見ている。

ヒナは、しばらくそうしてまじまじとゾロを見つめていたが、やがて、緩慢な動作で細長いタバコを取り出し、咥えて、火をつけた。

「……………………そう…。」

ふう、と、長い吐息とともに、煙を吐き出す。

 

その一連のやり取りを眺めていたスモーカーが、またおかしそうに、くつくつと笑う。

 

「そんな目で“迎えに行く”なんて言うくせに、惚れてるかどうかもわからねぇのか。」

 

ゾロが思わずスモーカーを睨みつけるが、スモーカーはまだ笑ったままだ。

その笑みが不意に消える。

 

「書けよ、ロロノア。」

 

スモーカーの目はもう笑ってはいない。

鋭い真摯な眼光が、ゾロをまっすぐに突き刺す。

 

「自分の腹の中にあるもん、全部。字にして吐き出せ。」

「そうすりゃ自ずとわかるだろうさ。」

「そいつに対する想いも、全部。」

 

そして、不意にその瞳が柔らかくなる。

 

「そういうことなら、尚更、俺はこれからのお前が紡ぎだす言葉が写してみてェ。」

 

ゾロの目を見たまま、スモーカーが、傍らのヒナに、ちょいちょいと手招きするような仕草をした。

すぐにヒナが、持っていた大きな茶封筒から四つ切の写真を何枚か取り出して、ゾロの目の前に置いた。

その写真を目にした瞬間、ゾロが大きく目を見開いた。

 

「俺が今度撮りたいと思ってるのは人間の原風景だ。」

「原…風景…?」

 

ゾロの目の前に置かれたのは、一面の菜の花畑。

雲ひとつない吸い込まれそうなほどの真っ青な空と、まるで黄色いじゅうたんのような鮮やかな菜の花。

目を射るような眩しさに、ゾロは心を奪われた。

 

それを手に取って、しばらく眺めてから、二枚目を見る。

今度は狂うような桜吹雪。

くるくると無数に舞う花びらで、向こうが霞んで見えないほどの桜。

どこか狂気の色を滲ませるような、妖しげな花煙。

 

三枚目は夜明け前の農道。

夜ではない、朝でもない、明けきらぬ薄ぼんやりとした、青の世界。

端のほうに、誰のものかわからぬ、子供らしい白い裸足が歩いている。

こんな時間に子供が何故そこにいるのか、それとも人ではないなにか狐狸の類なのか、わからない。

 

最後は、森の奥の廃墟。

薄暗く、うっすらともやがかかり、人の恐怖心を煽らずにはいられない、けれどどこか幻想的な、夢の中の世界のような風景。

 

見たこともないはずのそれらは、けれど、どれもどこかゾロの記憶の琴線に触れてきた。

懐かしい、というのともまたちょっと違う、まるで心の奥底にあった、或いは、いつか夢でこんな風景を見たとしか思えないような、そんな風景。

 

「これはまだサンプルだ。」

 

スモーカーがまた新しい葉巻に火をつけた。

ここに入ってから、もう三本目…というか、二本いっぺんに吸っているから、実質六本目だ。

なるほど。“スモーカー”か。

 

「俺はもっともっと人間の深遠が撮りたい。原風景は誰の心にもある、人間の魂が還っていく場所だ。俺はそれを撮る。おまえは俺の写真にもっと深みと色を与えて欲しい。」

 

スモーカーの目がゾロを見る。

 

「俺の写真にはお前が必要だ。」

 

その真摯な灰色の目に、ゾロは絶句する。

必要だ、と言われた瞬間、胸の奥からあふれ出したものが全身に広がって行くのがわかった。

 

「お前の心の中にもあるだろう、ロロノア。お前の魂の還って行く場所が。俺はそれも撮りてぇ。お前だけじゃない。俺の原風景も、ヒナの原風景も、万人の原風景を俺は撮りたい。」

「…途方もねェ…話だな、そりゃ。」

「そうだな。たぶん、世界中旅して回ることになる。それに同行して、お前の目で、俺の撮る世界を見てもらいたい。ヒナんとこの契約分では一年という事になっている。一年、俺の旅に付き合ってもらいたい。」

「…一年…で、万人の原風景が撮りきれるのかよ…。」

ゾロが問うと、スモーカーがわずかに口元を緩めた。

「撮りきれねェだろうな。俺はヒナの契約分を撮り終えた後も、また旅に出る。…俺は、これを俺の生涯かけて追うものにしようと思っている。」

淡々とした言葉に、ゾロは、男の夢の重みを感じた。

静かに、ゾロは圧倒されていた。

途方もないものに、自分の生涯をかけようという男の姿に。

 

─────そうか、これが…、翼ってやつか…

 

夢へとただひたすらに飛翔する、翼。

あの日、サンジの背にも見えた、同じもの。

 

飛べるのだろうか、ではない。

飛ぶのだ。

 

─────あァ…。

 

軽い眩暈のようなものを感じて、ゾロは椅子の背に身を預けた。

スモーカーはゆっくりと葉巻の火を揉み消している。

 

「まァ、お前さんにも生活があるだろうから、突然、一緒に仕事しろ、一緒に旅に出ろと言われても困るだろう。それほど時間はねぇんだが、ゆっくり考えてみて欲しい。報酬とかそういうのは、俺は門外漢だから、ヒナに全部任せてある。返事もヒナを通してくれて構わない。とりあえず俺の写真と雑誌を置いていくから、気が向いたら…。」

 

「スモーカー。」

 

喋りながら席を立とうとしたスモーカーを、ゾロが咄嗟に呼び止めた。

────ゾロ…。

耳の奥で、柔らかにゾロを呼ぶ声がする。

────ゾロ、息をしろよ。

声に促されるように、ゾロは注意深く息をついて、意を決した。

 

 

 

 

「俺もあんたの世界を紡いでみたい。つれてってくれ。」

 

2006.5.5

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