■ 第31話 ■ AIR/berryさん
「っぐ、う…!」
笑うかに見えたサンジは、けれどそのまま表情をなくしてがくりとうなだれた。
「………おい、お前…?」
白い首が、異様な角度に曲がっていた。死を連想させるその姿に、ゾロの呼吸が止まった。
───いつかゾロの手のなかで死んだひなは、不自然な角度に首を曲げてぐったりと目を閉じていた。手の中で憎らしいほどに暴れていたささやかなぬくみは消えてゆき、まるで冷たい置物のようにかたまって。
あの幻想がまた、サンジと重なる。まるで過去の亡霊のようだ。きりりと凍りつくような痛みが心臓をするどくつらぬき、ゾロはサンジの両肩を掴んで揺さぶった。
「おい、サンジ!───おい!」
───まさか。
死んだのか。
殴ったせいで右手がずきずきと痛みを訴える。さっき自分は、渾身の力をこめてサンジを殴った。あの鳥を握りつぶしたときのように。
────またか。またこんなに簡単に壊れちまうのか。
気がつけばいつもすべてが壊れている。人も、ものも、すべて。どうでもいいものもそうではなかったものも、壊れてゾロの前からなくなっていく。そして、壊れたものは二度ともとには戻らないのだ。
「────」
じわりと汗が滲んだ。サンジはがくりとうなだれたまま、ゾロの腕の中で動かない。
────何だ?
どうしてこんなに息が苦しい。誰かの異様な呼吸音が響いていて、それが自分のものだと気づくのに時間がかかった。
サンジの体を抱える手が震えていた。自分の体の異変にも、ゾロにはなすすべがなかった。
どうしてだ。どうしていつも同じことになる。のどが割れるほど絶叫したい衝動にかられた。それなのに、ゾロののどは凍ったように声が出ない。ひゅうひゅうと荒い、そのくせ不安定な息遣いばかりが漏れていく。
「……ッハ、…ァ…ッ!」
動揺と混乱がぎりぎりと胃をせりあがってきて、死にかけた動物みたいに息が乱れた。どこも怪我をしていないのに、どこも痛くないのに体がおかしい。
それでも、頭のなかは馬鹿みたいに同じ言葉が回っている。
だって、さっきまであんなに────こいつは。
こいつは生きてたじゃねえか。
ゾロが戸惑うほど強い光を瞳に宿して。あのはかない美少女のようだった面影はもうどこにもない。けれどいまは違う美しさがサンジの瞳を輝かせていた。よく笑い、よく怒り、殺しても死なないような顔で、ゾロのそばにくっついては嬉しそうに好き勝手なことをして回っていた。
そうだ、あいつは勝手だ。勝手に好きだと言い、勝手に仕事を見つけ、そして勝手に出て行くと言った、ゾロの手に余るようなあざやかな存在になっていた。
はかない命ではなかったはずだ。
ゾロがいまさら何をしようと────殴ろうとなじろうと貶めようと、もう二度と支配することも、服従させることもできなくなった男。
それなのに自分の感情的な拳がまた、あんなにも輝かしいものを無に帰してしまったのか。たった一発の、この拳で?
信じられなかった。
「嘘だ」
ゾロは茫然と呟いた。サンジを抱える手がどんどん熱くなる。自分でも力のコントロールができずに、体に食い込むほどに力がこもってしまう。この華奢な体じゃきっと痛がるはずなのに、サンジはうなだれたままぴくりとも動かない。
まさか。嘘だ。違う、こんなはずじゃねえ。
こんなに簡単になくなっていいはずがねえ。こいつの命が。───こいつの存在が。
あの笑顔が、あの声が永遠に失われるなど────。
けれど一方で、心の奥底から暗い声がささやいてくる。
『────これがお前の望んだことだ』
目の前が真っ暗になった。暗闇の奥底で、声は確かに嗤っている。ゾロを闇へと引きずり込むように。
『殺してしまえばもう逃げない』
『永遠にお前のものだ』
『ああ、よかった、ようやく手に入れた、ようやく───』
「───バーカ、うそだよ」
あかりをともすように、声が響いた。ふわ、と金の髪が動く。
愕然と目を見開いたゾロの前で、サンジがひょいと頭を起こした。あの青い目が────とびきりあざやかに、にやっと笑った。
「サ────」
一瞬で、凍っていた全身が溶けていく。そんな錯覚に襲われた瞬間に、ゾロは下腹部に破裂するような衝撃を食らって吹っ飛んだ。
「─────!!」
そのままゾロの体は背中から壁に激突し、どんと激しい音が響いた。振動のためにぱらぱらとほこりが落ちてきて、テーブルのうえの食器がかたかた騒ぐ。茫然と顔を上げた向こうで、サンジが右足をひょいと浮かせて振ってみせた。
(…サン…ジ?)
こいつが蹴ったのか。俺を。こんな、俺の体を吹っ飛ばすくれェのすげェ蹴りを。
今まで無数に喧嘩も乱闘もしてきたけれど、こんなにも見事に蹴りを叩き込まれたのは初めてだった。
暗い場所へひきずりこまれかけた意識が、ぱぁっとあかるい、けれど優しい光に包まれるのを感じた。
───こんなすげェ蹴りが出来る奴だったのか、お前は。いつのまに。
一体どれだけ、俺の知らねェことを隠し持ってやがるんだ。
急速にゾロの世界に光がさしてくるようだった。こんなサンジは知らない。ゾロに壮絶な蹴りを入れて、得意げににやにやと笑って立っているサンジなど。
ああ、サンジは本当に変わってしまったのかもしれない。けれどそれはもうゾロを脅かすものではなかった。
───ただ惹きつけられた。まぶしかった。サンジの壮絶な蹴りは、ゾロがこれまで溜めてきた淀んだ何かをも吹っ飛ばしてしまったようだった。
「おいおい、油断すんなよ馬鹿マリモ。あんまり綺麗に入りすぎてびっくりしちまったぞ?つかテメェ、死んだふりなんて古ィ手にひっかかんなよなァ」
くっくっく、と楽しそうに笑いながら、おうすげーな、あのジジイ直伝の蹴りは、とサンジは一人で機嫌よくつぶやいていた。
「……死んだフリ、────だと?」
ゾロは眉をよせて息を飲み込んだ。あれだけぐったりしていたサンジが、今は不敵に笑ってぴんぴんしている。
「うん、死んだフリ。…おー痛ぇ。歯ァイっちまったなこりゃ。クソ、歯医者いかねぇとな」
眉をよせてサンジは頬に手をあて、ばたばたと洗面所に走っていく。水を流す音と、ぶくぶくぶく、と何度かうがいをする音が聞こえた。いてーいてークソーいてーぞ、と歌うように繰り返しながら、サンジはすぐにひょこひょことゾロの前まで戻ってきた。濡れたタオルをきちんとたたんで、ほほに当てながら。
あほみたいに見上げているゾロに、サンジはこら、と言いながらちょんと脚をひっかけた。まるで動物とたわむれるように、サンジの目はやわらかかった。
「…あれがてめぇの本気の拳だろ、クソ野郎」
「…あァ」
つられるように返事をしていた。よいしょ、とサンジがしゃがみこんで目線をあわせてくる。サンジは子供のように「いー」としてみせた。
「おい、歯がイっちまったぜ。どうしてくれんだ?」
「…すまん」
なんだか狐につままれているようで、ゾロは間抜けにもそんなことを口にしてしまう。
するとサンジは、くくっと肩をすくめて笑った。なぜだかすごく嬉しそうな、はにかんだ笑みだった。
「…何を笑っていやがる」
「なあゾロ、俺うれしいんだよ」
何がだ。殴られたことがか?こいつの頭はどうなってる、とゾロがかすかに混乱したとき。
花の色のように頬を上気させて、サンジがささやいてきた。
「───てめぇが俺に本気出してくれてよ、すげえ嬉しい。…初めてだよな、ホントに手加減しねぇの」
「────」
「で、どうだよ?俺のほうの本気の蹴りは」
サンジは自慢げに目を輝かせ、物騒なことを聞いてきた。このごはん、うまかったろ?と聞いてくるときとまるで同じ笑顔だった。
「てめぇが本気出してくれたから、俺も殺す気でやったぜ、礼儀としてだがな。───あのさぁ、アバラ、イってんじゃねェ?折れても肺にささんねぇように場所選んで蹴ったつもりだけど。つか狙ったんだけど」
ちゃんと見てみろよ、なぁ、としきりにうるさく言われて、ゾロはのろのろと肋骨のあたりをさぐってみた。
とたんに、鋭い痛みがきりこむように体を刺してくる。おそらくヒビが入っているようだった。
「二本。…てめぇに持ってかれた。折れちゃいねェがな」
憮然と告げると、サンジがにかっと笑った。
「この蹴りはよ、俺の店のオーナー直伝だぜ?すげェのはコンソメだけじゃねえ。昔、なんとかとかいう外国の、蹴り主体の格闘家だったらしくてよ。俺には筋があるって、そっちのほうも特訓してくれてんだ」
「…どういうレストランだよ、そりゃあ。客でもシメんのか」
「悪ィ悪ィ。まあ俺も歯ァ2本イったから、あいこだよな」
あいこなもんかよ、と本気で思ったが、サンジがやたらとにこにこしているのでなんとなくゾロは黙った。
───そうだ、サンジがここにいる。ゾロのそばにいて、笑っている。さっきはどうしても出て行くんだと言いはっていたのに。
「…おい」
ゾロは手を伸ばし、サンジの手首をぐいと掴んだ。納得できるまでは決して離さないと決めて。
サンジが不思議そうにゾロを見る。この幼い青い目が、自分だけを映しているのが、どうしてかひどく特別なことに感じた。
「なんで出て行くって言ってやがるんだ。ちゃんと俺に説明しろ」
それに、どうして───抱かれたくない、と、かたくなに言い張るのかも知りたい。
俺が好きなら抱かせろ、そばにいろ。なぜ拒むのか。サンジは考えろと言ったけれど、考えてみても頭痛がするだけでゾロにはどうしてもわからない。
サンジがゾロを見つめながら、青い目を瞬かせた。吸い込まれるような瞳だと思った。
「…だって、お前」
手首をつかんでいる手に、サンジはそっと唇を寄せてくる。そのまま優しく、キスをしながら頬をすりつけて。それは子供じみた仕草なのに、その感触とぬくもりにゾロの胸がつきんと疼いた。
「だって、…俺のこと好きじゃねえだろ?」
「────は?」
思わぬ言葉に、ゾロはとっさに返す言葉を失った。けれどサンジは優しげな瞳のまま、静かに言葉を続ける。
ゾロの拳に、あたたかいものを吹き込むように。
「ずっと一緒にいたけどよ、てめぇは俺といても笑ったことねえだろ。俺といてもちっともしあわせそうじゃねえ。笑ってたのは金が手に入ったときだけだ。俺はもう、そんなの嫌なんだよ、ゾロ。だから…」
「ちょっと待て」
ゾロは思わず口をはさんだ。ゾロがサンジを好きじゃないから、だから出て行くとサンジは言うのか。
────好きだなんて感情、知るか。ゾロには今でも分からない。好きだということ、その感情もその意味も。
けれどゾロはサンジが欲しい。手放したくはない、それだけは全身で感じているのだ。
「勝手に一人で結論を出すな。───ここにいろって俺は言ったじゃねェか」
「………」
「いろよ、ここに。出て行くな」
声が、どうしてか震えた。サンジはゾロをじっと見て、静かに、けれど決然と告げてきた。
「俺はお前に、自覚なく依存されたくねえ」
思いもかけない言葉だった。───俺が、依存してるっていうのか。お前に?
けれどサンジはゾロから目をそらさず、ゾロの手をあたたかく包んだままに言葉を続けた。
「お前が俺を欲しがってくれてんのは分かる。でもそれは…、なんか違うもんだ。お前に最初に会ったとき、俺もそんな感じだったしよ。だからうまくいかなかった、何だって」
世界を、無数の他人を静かに呪って。ただうずくまって救いの手を待っていた。狂ったようにぬくもりを全身で求めながら、その実、心には他の誰をも受け入れる余裕がなかったあの頃の自分。
だから、わかる。ゾロもきっと、あのときの自分と同じなんだって。人を求めていながら、心には誰も入れない。寂しくて、苦しい。
俺はゾロに、そんなままでいてほしくない。放っておけと、傲慢だといわれても───お前にそう望む人間が一人くらいいたっていいじゃねぇか。
「確実に言えるのはよ、───ゾロ。今のままでセックスしたって一緒にいたって、お前はちっともしあわせになれねえってこった。なんかそんな気がする。しあわせになんなくていいなら依存だって何だってかまやしねェ、一緒んなって落ちるとこまで落ちたっていいくらい俺はお前に惚れてるよ。だけど───俺はお前をしあわせにしてェんだ。この先もずっとな」
どうしたらゾロをしあわせに出来るのか。どうしたらずっと一緒にいられるのか。そう考え始めたときから、離れるという選択肢がサンジのなかに現れた。
「お前は俺に、しあわせってのをもらった」
「………」
「お前が俺に教えてくれたんだ。それを。だから俺は、お前のこともしあわせにしたい」
ゾロを好きになって、たくさん回り道もしたけれど。そのおかげで、見失っていた自分自身に戻ってこられた。
ゾロもゾロに戻って生きて欲しい。きっと何かがゾロの邪魔をしてるんだ。ゾロのなかに巣食っている根深い何かが。俺はゾロが好きだから、ゾロに楽しそうにしあわせになってほしい。二度とその何かに振り回されないように。例え振り回されたとしても、また何度でも立ち上がれるように。
「俺はさ、俺も…。一人でがんばるから」
「……何を」
「お前が、本気でほしいと思わずにいられねぇような俺になる。もっともっと頑張る。仕事も、他のことも」
「…………」
「アレすっげぇいいなって、のどから手が出るほど欲しいぜって思って手に入れたものじゃねえと、お前嬉しくねぇだろ?だから俺はもっともっといい男になるぜ。てめぇに吠え面かかせてやる」
へへっ、と照れたみたいにサンジは笑った。
「仕事してみてわかったんだ、俺、そういうの」
何件も店を回っては、すげなく断られてつまみ出され。みっともない姿をさらしながら、這いずるように働かせてくださいと土下座して、泣きながらようやくつかんだ仕事。
店に入るようになっても、あんまりその現状はかわらない。何回も同じ失敗をして、笑われて殴られて情けない思いをして、自分ひとりが無能であることを思い知らされながら、それでも。
街であてどなくしゃがみこんでいたあのときより、サンジはずっと充実していた。前よりずっと、自分のことも、ゾロのことも愛おしくてたまらない。
────だからいつか教えて欲しい。ゾロが抱える痛みも闇もすべて。
さっき本気で殴られたのが、心から嬉しかった。
────本気の力で殴って蹴って、俺らは痛みをわけあったんだ。
「なぁ、会いに来いよ、ゾロ。会いたくなったら来ればいい。俺の顔が見たいって、会いてぇって言え。そしたら俺、メシ作って待ってるから」
いつでも手を伸ばしてくれればいい。拒んだり、払ったりなんかしない。
求めるだけ求めてくれていい。いつだって。───こわくないから、大丈夫だから。
「言葉、使うんだ。人間は。欲しいって言い続けりゃ、いつか手に入ったりするもんなんだぜ、きっと」
だからいつでも言ってくれ、ゾロ。俺はお前が、そう言わずにはいられねえほどの男になるから。───いつか本気で、俺のこと好きになってもらえるように。
サンジはそうささやいた。まるでゾロを甘やかせるような響きで。
ああ、めまいがする。
サンジはそっと、ゾロの唇を撫でた。自分より年下の、まだ16歳の少年とは思えないほど大人びた、やさしい仕草だった。
「約束する、ゾロ。俺はてめぇをずっと好きでいる。裏切ったり、いなくなったりしねえ」
『約束』。
不思議な響きを帯びた言葉だった。言葉なんてなんの重みもない、いまいましい嘘だらけだとゾロは思って来たけれど。
サンジの声は、ゆっくりと、ゾロのなかまでしみ渡ってきた。
「もし俺が約束を破ったら、俺を殺していい。約束を破っちまったら、俺はお前に殺されに来てやるからさ」
「────」
「俺はお前に嘘をつかない。これからもずっと。約束する」
お前のことが好きだから。
ゾロを見つめながら、サンジの瞳はこれまででいちばんあざやかに輝いていた。
───ああ。
壊せない。俺にはこれを壊せないとゾロは思った。だってこんなにも────サンジがここにいる、そのことを感じるだけで、まるで打ちのめされたみたいに息ができない。体の奥から湧いてくる激しい思いは暴力的な衝動ととてもよく似ていて、だけど全然違うものだと今のゾロなら分かった。
大切だ、と、体のどこかが感じる。体中で感じている。これは大切なものだ、なくしてはならないものだ。それなのに、そいつは自ら強い目で笑って言う。俺はどこにもいかない、お前のもんだ、お前が本気で欲しがるような俺になる、なるから、だから、そのときまでも、────ずっと一緒に。
一緒に、いたい。
「本当に…」
言葉は無意識に、ゾロの唇からすべり落ちてきた。
「…ん?」
「ほん、とか」
「────」
「どこにも、いかねぇのか」
まるで子供みたいに、確かめるような言葉。それでもサンジは、笑わずにまっすぐうなずいた。
「…うん、いかねぇ」
「俺のもんか」
「そうだよ。てめぇのもんだ。離れてても」
「ほんとか」
「ほんとだ。───ほんとだ、ゾロ。俺はこんなに、」
息をつまらせて、震えるようにサンジはささやいた。
「こんなに────誰かを…。誰かと、約束なんてしたこともねえ。だけどお前とは、してぇよ。もし…、もしも、お前が俺と、約束してもいいって思ってくれるんだったら────」
俺を、「約束」に値する男だと信じてくれるのだったら。
俺はもう、死んでもいいくらいしあわせだ。
────命をかけて、この約束は守るから。
目もくらむような熱に何度も頭を殴られているようで、ゾロはどうしてかまともに息ができない。目のまえがかすんでぐにゃぐにゃと歪んでいく理由もよくわからない。けれど胸の奥から今までたまっていた何かが一度にこみあげてきて、ゾロはもうそれが落ちていくのをとりつくろうことも抗うこともできなかった。
「ゾロ」
迎える声と細い肩に、ゾロは目を押し付けて泣いた。こみあげる熱いものはあふれて止まらず、サンジのシャツを濡らしていく。
サンジは笑わずにただぎゅうっと両手でゾロを胸に抱きしめていた。息もできないかのように肩をあえがせ、ぎゅっと眉を寄せて、ただ、つよく、つよく。何度も何度も、ゾロの体をかき抱いて。
「…サン、ジ」
生まれて初めて、心の底から欲しいと願ったものが───あんまり激しく願いすぎていて自分でも自覚できなかったほど大切で愛しくてならないそれが、ゾロの目の前にいる。なんて綺麗なのだろうとゾロは思った。
汚いものばかり睨みつけて凝視してきたくせに、綺麗なものを目の前にするとゾロは馬鹿みたいに無力だった。無力にただ、見つめることしかできない。まぶしくて、いとおしい。それがここにいる。自分のそばにいて、自分に欲しがられている。でもそれをどう伝えればいいのか、ゾロにはわからない。
「サンジ……っ」
その名を呼ぶしか、できなかった。だけどそれだけで、体中の血液が入れ替えられるような痛みに激しく胸がうずいた。
名前を呼びながら、涙で声が詰まって震えた。涙は次々とこぼれ落ちて来る。大の男が声を上げて泣いて、しゃくりあげて震えている。みっともない顔のはずなのに、サンジはそっとゾロの頬に手をあてて、大事なものに触れるように微笑んだ。
はにかんだように目元を染めて、ゾロ、と小さく声を返す。何度でも、いとおしそうに、ゾロ、ゾロ、と繰り返す。
「────ゾロ…」
ああ、この声が好きだ。世界でたったひとつ、この声で呼ばれるこの言葉が。
サンジも泣いていた。微笑みながらぱたぱたと零れ落ちていく涙をぬぐいもせず、サンジは必死に繰り返す。
「好きだ、ゾロ」
「誰よりも、お前だけが」
「この先だってずっと」
16年。それがこの男の生きてきたほんの短い年月。それなのにそのすべてを賭けるかのような言葉が、ゾロの胸に響いてくる。
手を伸ばして、あたたかいぬくもりをゾロは力いっぱい抱きしめた。
「────サンジ」
ゾロは目を閉じ、とくとくと走る胸の鼓動を聞いていた。あたたかくて、優しい。
サンジはここから出て行く。それでもいい。サンジに好きだと告げる資格も、まだ今の自分にはない。
会いに行こう、とゾロは決めた。
明日からの自分など予想もつかない。明日に希望を抱いたことなど一度もなかった。けれどもこの男がいるのなら。たとえゾロの目の届かないところにいても、この男がいる、生きていると思うだけで、今までと違った力が湧いてくるような気がした。
サンジの指先はもう白くたおやかではない。やけどのあとも、切り傷のあともたくさんある、少しずつ皮の厚くなり始めている指だった。もうきっと、化粧をしたって女物の服を着たって似合わないだろう。
「もうピンクのマニキュア塗れねえなあ。指、汚くなっちまったし」
ゾロの視線をたどってか、ゾロに抱きしめられたまま、そんなことをサンジが言う。
「…いや」
ゾロはその手をそっと、持ち上げてくちづけた。大切なものだから、傷つけたくないものだから優しくするのだ。ゾロにはもうそれがわかる。それだけ幸福な気持ちが満ちてくる。かつてあんなにも欲しがり、裏切られることに怯え、手に入らないのならいっそ壊そうとしていたものが、ゾロの腕のなかで微笑っている。
「この手がいちばんいい。…俺ァそう思う」
この手を。
この男を。
────初めて誰かに優しくしたいと、誰かを守りたいと思った。
2005.6.22
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