■ 金色の花 ■ Dirty Bird/紅子さん
不動産屋に教わった道を黙々と歩く。
目の前に現れたのは、見たこともないような小汚いアパートだった。
ボロボロの外壁に、今時珍しい重たそうな木の雨戸。
二階建てのその長屋風建物は、八部屋のうち六部屋が埋まっているという。
家賃を聞いて、サンジは迷わずに一階を選んだ。
少しでも安いにこしたことはない。
働く予定のレストランのオーナーは、保証人もいない未成年のサンジの為に、地元の不動産屋に直接交渉してくれた。
駄目もとで住み込みで雇ってくれと頭を下げたサンジに、のっぴきならない事情があるのを察してくれたのだ。
この上金の迷惑までかけるわけにはいかないから。
身の丈に合った小さな部屋が自分には似合いだ。
風呂なし、トイレ共同の四畳半一間、家賃一万六千円なら、手持ちの金で敷金も前家賃も支払える。
贅沢を言っていられる状況ではない。
怯む気持ちを奮い立たせ、下見の為に貸してもらった鍵で扉を開ける。
陽の入らない室内は黴臭い。
ドアの内側に、五十センチ角程の靴脱ぎがあり、そのすぐ脇は流し台だ。
曇ったステンレスの台には一口のガスコンロ。
サンジは部屋の中央に座り込んだ。
これからここに住むのかと思うと気が滅入る。
(たった一人で、ゾロと離れて、こんなとこで)
だが、引き返すわけにはいかない。
自分で決めたことなのだ。
今まで通り、ゾロの傍にはいられない。
壁の向こうで、電話が鳴った。
しばらくなり続けた後、誰かが取った。
耳慣れない外国語が聞こえる。
(すっげえ薄い壁……ここじゃ絶対、セックス出来ねえな)
苦笑し、腰を上げる。
選択の余地はない。
サラリーマンを何人か引っ掛ければ金は手に入るかもしれないが、もうそんなことは出来ないしするつもりもない。
何もないここから、スタートするのだ。
自分の為に。
ゾロとちゃんと向き合う為に。
玄関を出て鍵を掛けていると、電話が鳴ったのと反対側の戸がそろりと開いた。
しわくちゃの、シミの浮いた手がサンジを手招きする。
「あのー、こんにちは」
恐る恐る窺うと、しわだらけの爺さんが真面目くさった顔で覗いていた。
「あの、別に怪しいもんじゃなくて。今度隣に引っ越してくるんで、今日は下見に……」
「入んなさい」
爺さんは有無を言わさぬ口調で言った。
薄いせんべい布団が敷きっぱなしの室内に案内される。
爺さんはサンジに煮しめたような色の座布団を勧めた。
電気ポットから急須に湯を注ぎ、震える手で茶を淹れる。
サンジが座布団に座ると、尻に何かが当たった。
畳との隙間に差し込んだ手に、固いものが触れる。
ぺちゃんこになった、プラスチックのマーガリンの箱だ。
(うええええええ……)
目でゴミ箱を探していると、爺さんは振り返った。
「おお、どこに行ったかと思えばそんなところに」
爺さんはサンジの手からろくに中身の入っていないそれを奪い取り、小さな冷蔵庫に大事そうに仕舞った。
「さあ、飲みなさい」
湯のみ茶碗には汚れが筋になってついている。
口元を覆って、飲む振りをした。
爺さんは黙ったまま、自分の分を啜っている。
何と言っていいのかわからず、サンジも黙って座っていた。
きっと孤独な老人なのだ。
窓辺に目をやった。
発砲スチロールの箱が並び、中には土が入っている。
土は黒々として、綺麗に均されていた。
「あれは?」
指差すと、爺さんはぶっきらぼうに答えた。
「クロッカス」
「ああ……球根」
「黄色いのが一番好きでな」
爺さんはサンジを見上げ、にかっと笑った。
相槌を打とうとしたサンジの、正座をした足の裏を何かが横切った。
「うひゃ」
……ゴキブリに轢かれた!!!
思わず飛び上がった足元から慌てて逃げて行ったのは、ゴキブリではなく小さな緑亀だった。
「おお、これはとんだ失礼を。ラブーン、自分の場所に戻んなさい。ハウス、ハウス」
爺さんは亀を摘み上げ、砂利を入れた洗面器にそっと置いた。
「気ままな奴でな、驚かせて申し訳ない」
丁寧に頭を下げた爺さんにつられ、サンジも頭を下げた。
「で、お隣さん。あんた、何をする人だね?」
「ええと……まだ、何もしてません。これから」
少し考えて、そう答えた。
今の自分はまだ空っぽだ。
「お爺さんは何をしてるんですか?」
「私も何もしとらん。今はな」
「前は?」
「戦争に行って、人が沢山死ぬのを見た。あんたといくらも違わない年の頃だ」
「軍人だったんだ」
「召集された。衛生兵だった」
爺さんはよろよろと立ち、押入れからアルバムを取り出した。
広げた写真に写っているのは、白衣を着た生真面目な表情の若い男。
目の前の爺さんの面影があった。
背後に見えるのは椰子の木だ。
「南の島だ」
サンジが言うと、爺さんは頷いた。
「サイパンだ。この世の地獄だった」
爺さんはまた黙り込み、茶を啜った。
サンジも飲む振りをした。
「ところであんた、恋人はいるのかね?」
唐突に沈黙が破られ、茶碗を落としそうになる。
「えっと、え、まあ、一応」
「そうかそうか」
爺さんは頷き、また押入れに行き雑誌を引っ張り出して来た。
(うわ、エロ本)
見開き一杯の美女の股間を指差し、爺さんは言った。
「女はここが盛り上がっとるのがよい。恥丘がふっくらしとる女は、情が深くてアレも名器だ」
「……はあ」
「あんたの恋人のここはどうだね?」
爺さんは美女の股ぐらをぱしぱしと叩いた。
「えー……めちゃくちゃもっこりしてます」
「そうか!!!でかした」
爺さんは嬉しそうに頷いた。
「大事にしなさい。私は、好いた奴とはとうとう一緒になれなかったよ」
不意に目頭が熱くなった。
ゾロが好きだ。
ゾロと一緒に居たい。
でも、今は一緒に居ちゃ駄目なんだ。
俯いて誤魔化そうとしたが、涙が零れた。
「あんたは幸せだ」
爺さんは優しく言い、手を伸ばしてサンジの頭を撫でた。
「お茶が冷めてしまったね。淹れ換えてあげよう」
新しく淹れてもらった茶を、サンジはちゃんと飲んだ。
熱くて美味かった。
外の通路に賑やかな声がした。
「あやつら、帰ってきおったな。うるさくなるぞ」
爺さんは戸を開け、大声で呼んだ。
「ワイパー!カマキリ!新しいご近所さんがうちでお茶しとるぞ。挨拶しろ」
刺青だらけの若い男達が、かわるがわる部屋を覗き込んだ。
早口で何か自己紹介らしきことを言う。
強烈なスパイスの香りが漂った。
(シナモン、クローブ、カルダモン、クミン……あと、何だかわからないもの)
彼らはびっくりしているサンジに笑いかけ、すぐに行ってしまった。
「あんたの反対側のお隣さん達だ。3、4人いるが、時々増えたり減ったりして正確な人数はよくわからんのだ」
爺さんが言った。
「どこの国の人ですか?変な名前」
「知らん。名前は私がつけたニックネームだ。あいつらの言葉は発音不可能だ。あんた、連中の言ったことわかったかね?」
「いいえ。全然」
「しょっちゅう料理を差し入れしてくれるんだが、年寄りには刺激が強すぎてな。調子に乗って食いすぎると腹に来る」
「あはは」
サンジが笑うと、爺さんはしわだらけの顔をいっそうクシャクシャにして微笑んだ。
「ここに来て、初めて笑ったね」
急に気恥ずかしくなって、サンジは立ち上がった。
「お茶、ありがとうございました。これから、よろしくお願いします」
戸の前で姿勢を正し、礼をした。
爺さんは座ったまま手を振った。
「おまえさん、気に入ったよ。いい具合に金色だ。私の花達みたいに」
帰り道で、サンジは互いの名を聞かなかったことに気づいた。
(クロッカスさんって呼ぼう。あの人のこと)
身一つで始めようとした自分なのに、もう何かを得ている。
立ち位置を変えただけで、見えてくるものはこんなにも違うのか。
(今すぐは無理だけど、いつかあの部屋にゾロを呼べたらいいな)
来た時とはうって変わって、軽い足取りでサンジは鍵を返すため不動産屋に戻った。
2005/10/18
END.
■ 最終回祭り ■
紅子さん作第30話に出てきた爺と外国人を紅子さん自身が味付け。
「紅子さん、亀好きだな」ってフカヒロさんが言ってました。