* Pure Blooded *
−2−
─────何でこいつ腹巻なんだろう…。
さっきからサンジは、目の前の狼犬を飽きず眺めている。
いくら人間には普通の犬に見えてるからって、この格好はちょっとどうなんだろう。
腹巻。
しかも緑の腹巻だ。
サンジみたいにスーツを着ろとは言わないが、このファッションセンスはひどすぎる。
だいたい腹巻って腹にじかに巻くもんじゃなかっただろうか。
服の上からするもんだったっけ?
頭が緑だからなぁ…コーディネートのつもりなのかもしんないな…。
緑がかった漆黒の毛並み。
ブラックウルフあたりの血を引いてるんだろう。
引き締まった精悍な顔つきをしている。
サンジより1〜2歳年上だろうか。
体長はサンジとほぼ変わらないか、やや大きいくらい。
まあいい男っちゃいい男だ。
─────俺には負けるけどな。
目の前の狼犬───ゾロは、サンジの不躾な視線を気にする事もなく、平然と寝そべっている。
目を閉じているから、眠ってしまったのかもしれない。
ナミさんとサンジに「みんな」を紹介した後、ルフィは、サンジをここに残してナミさんと家屋の中に入ってしまった。
なので、サンジはぼんやりとここにいる。
別にナミさんを追いかけて自分も家の中に入っていけばよかったのだけど、何となく出来なかった。
だってここはサンジのテリトリーじゃないし、ルフィの家だし、それに、なんだかルフィもナミさんも、間に入っていくのが憚れるような雰囲気を醸し出していたのだ。
一瞬気後れしたサンジは、それ以上ついていくことが出来なくなって、だからこんなところで腹巻狼を眺めていたりする。
ゾロは悠々とその身を横たえて、寝入っている。
傍に見知らぬ犬がいるというのに意にも介さない。
─────もう一度目ェ開けねェかな。
何となくそう思いながら、サンジはゾロを見つめている。
あの金色の瞳がもう一度見たい。
でも本当に目を開けてしまったら…きっとちょっと怖い。
さっきほんの少しちらりとその目で見られただけで、サンジの全身を戦慄が貫いたのだから。
竦んで、動けなかった。
強烈な光を放つ、美しい野生の金色の瞳。
すぐにわかった。
狼の瞳だと。
サンジとは比べ物にならないくらい濃い狼の血を持つ犬だと。
サンジの中の微かな狼の血が、一瞬にして反応した。
犬との交配を繰り返して、狼の血を僅かしか残していないサンジとは逆に、ゾロは、より濃く狼の血を残すように交配されたのだろう。
傍に見知らぬ犬がいても目を閉じていられる度胸の据わったところは犬の性質なのかもしれないが、その美しい金の瞳といい、姿といい、ほとんど狼そのものだ。
野郎相手だから、サンジはもちろんゾロにろくに挨拶すらしちゃいなかったが、内心では、目の前のゾロから立ち上る独特のオーラに、サンジは圧倒されていた。
魅せられてたと言ってもいい。
もっともサンジ本人にそんな事を言ったら全力で否定しただろうけど。
しばらくゾロの傍をうろうろしていたサンジは、待てど暮らせどナミさんが出てこないので、諦めて、ゾロから少し離れたところに腰を下ろした。
そのまま体を丸めるようにしてうずくまる。
─────早く出てこねェかな、ナミさん…。ここは知らないにおいばっかりで心細ェよ…
絶対に口には出さない弱音を、サンジは心の中で呟く。
お天気もいいし、そよ風も気持ちいいし、空気もおいしい。
ナミさんさえ傍にいてくれたら天国のようなのに。
そんな事を思いながら、サンジはやがて、うつらうつらと居眠りをし始めた。
ふと、すぐ近くに気配を感じた。
ハッと目覚めると、なんとゾロがすぐ近くまで来ている。
ゾロは、寝そべったサンジの体に身を寄せて、ふんふんとサンジのにおいを嗅いでいた。
それに気がついた瞬間、サンジの体は、がきん、と硬直した。
さっきゾロの金色の瞳にちょっとびびっちゃった事も手伝って、サンジは完全にフリーズする。
サンジの服の隙間に顔を突っ込んで、首筋やら腹やらのにおいを嗅いでいたゾロは、ついにサンジの尻に鼻先を寄せて、そこのにおいを嗅ぎだした。
もうサンジはパニックだ。
─────な、な、な、な、なにやってやがる、こいつ…!?
もちろん犬が相手を認識するためにお互いの尻のにおいを嗅ぎあう事は当たり前のことなのだが、そこはレディ至上主義のサンジ、今まで野郎に尻を嗅がせたことなど一度もないのだ。
─────ひいいいいいいいいいっっっっっ
ゾロは執拗にサンジの尻を嗅いでいる。
サンジは必死にしっぽを股の間に丸めて、ゾロから尻を死守した。
そうしないとなんかもう尻が危険な気がする。
ゾロはサンジの股座に顔を埋めんばかりの勢いでサンジの尻を嗅いでいる。
今にもズボンを剥ぎ取られてじかに尻の穴でも嗅がれそうだ。
いやいくらなんでも、オスがオスにやるにはこれは過剰じゃなかろうか、とサンジが涙目になりそうになった頃、ようやくゾロは顔を上げた。
怯えた目でゾロを見ていたサンジと、視線が絡む。
ガラス玉のようなサンジのブルーアイとは輝き方も虹彩も違うゾロのゴールドアイ。
ぞくり…、とサンジの中で何かが蠢いた。
その時、だしぬけにゾロがぺろりとサンジの頬を舐めた。
「うぎゃああああああああ!!!!」
途端にサンジは絶叫して飛びのいた。
ついでに体を一回転させてゾロを後ろ蹴りにする。
今まで成すがままだったサンジの突然の反撃に、ゾロも驚いて飛び退る。
「あぶねェな。何しやがる。」
構えもせず、ゾロが鷹揚に言った。
どこかおもしろがっているように見えて、サンジはかっとなった。
「何しやがるはこっちのセリフだ! クソバカ腹巻! 俺は野郎に舐められる趣味はねぇんだよ!!」
わめきながらサンジは矢継ぎ早に蹴りを繰り出す。
ゾロはそれを平然とした顔で受けている。
むしろ心なしか嬉しそうだ。
サンジは目を見張った。
本気の戦いでないとはいえ、充分に体重を乗せて蹴っているのに、ゾロは余裕でそれを往なしている。
こんな相手は初めてだった。
そもそもサンジは、他の犬とかけっこ等で遊ぶ事があっても、じゃれたりする事はめったにない。
ケンカ一つした事がない。
大型犬であるサンジは、例えふざけていただけだとしてもちょっとした事で他の犬に怪我をさせてしまう恐れがあるためだ。
サンジが全力で遊べる相手などそうはいない。
けれどゾロは、体つきもサンジとほぼ同格で、サンジの蹴りを受けてもけろっとしている。
重そうな体躯に似合わないほど敏捷な動きで巧みに攻撃を躱している。
これならどうだ、と真正面からのライダーキックも正拳でブロックされた。
サンジの蹴りを止めておいて、ゾロはにやりと笑いながら
「えれェ跳ねっ返りだな。」
と言った。
跳ねっ返り、なんて、オスに使う言葉じゃない。
馬鹿にされた、と思った瞬間、サンジの頭が、かあっと熱くなった。
「てめェ、ぶっ殺───……」
「珍しい。サンジ君がオスと仲良くしてるー。」
出し抜けにナミさんの軽やかな声がして、サンジはぎょっとして振り向いた。
「ナミさん!」
もうサンジは対峙していたゾロの事など忘れてナミさんにしっぽを振る。
「お友達になったのね。偉いわ、サンジ君。」
「こぉんな馬鹿と友達なんてなるわけないじゃあ〜ん。ナミさぁん。」
しっぽどころか尻までぷりぷりと振るサンジを見て、ゾロが、「けっ」と吐き捨てて、元いた位置まで下がってごろんと横になる。
「ああん?」
かちんときて、サンジは首だけ振り返ってメンチを切る。
だがゾロはおもしろくなさそうに、ぷいっと横を向いて目を逸らした。
てっきり挑発に乗ってくると思っていたサンジは、拍子抜けした。
「なんだよ…。どしたの、てめェ。」
思わず体ごとゾロに向き直る。
そんなサンジのしぐさが、まるでゾロを気遣っているよう見えたのか、ナミはますます笑みを深くした。
「サンジ君もオスと仲良く出来るのねぇ。」
しみじみと呟く。
「だから仲良くなんかなってないってばぁ。どこが仲良く見えるの、ナミさん。」
「な? 俺の言ったとおりだろ、ナミ。ゾロとサンジなら絶対大丈夫だと思ったんだ。」
ナミさんの隣に立ったルフィが、にかっと笑いながらナミにそう言った。
「仲良くなってねェってのがわかんないかな。ナミさんから離れろ、ルフィ。」
「ほんとねぇ。」
ナミさんが頷いている。
うんうん、と何度か得心するように頷いて、ナミさんはルフィの方を向いた。
「じゃあ、ルフィ、このままサンジ君の事はお願いできるかしら。」
─────はい?
「だいじょぶだ。俺に任せとけ!」
ルフィが胸を張る。
「え? な、何、その会話。ナミさん?」
ナミさんが微笑みながらサンジの前にしゃがみこむ。
「サンジ君あのね、今日からここがサンジ君のおうちになるからね。」
「え…?」
「あたしはちょっとの間だけ傍にいられないけど、いいこにしててね。」
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
ナミさんは続けて、「あたしも色々片付けたらすぐにくるからね。」とか「ちょっとの間いないだけだからね。」と言ったが、サンジの耳にはほとんど聞こえていなかった。
今日からここが俺の家ってどういう事?と、茫然としている間に、ナミさんは話し終えて、サンジをいつものようにきゅっと抱き締めると、ミニスカートをひらんとさせて立ち上がった。
「じゃ、ルフィ、よろしく。」
「おう。」
ナミさんは笑顔でサンジに向かってひらひらと手を振っている。
あれはバイバイって事だ。
え、ナミさんが何で俺にバイバイするの?
ナミさんが車に乗り込んだ。
エンジンがかかる音を聞いたとたん、サンジはパニックを起こした。
「待って! 待ってくれよ、ナミさん! 何で俺を置いていくの? 俺も帰る! 待って、ナミさん置いてかないで!」
車に向かって駆け出そうとしたサンジの体は、ルフィにやんわりと抱き留められた。
「だーいじょぶだサンジ。ナミはまたすぐ来るから。」
ルフィの言葉もサンジの耳には届かない。
走り去っていくナミの車が視界から完全に消え去っても、サンジは悲痛な声で鳴き続けた。