●チビネコ▲ふきのとう★れんげ草■
(「地に伏して恋歌を聞け」番外編)
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ベン・ベックマンは、主に永遠の忠誠を誓っている。
それが血の掟であるのはもちろんの事だが、ベックマン自身が心底、主に惚れ抜いているからに他ならない。
それこそ、己の命を賭す事すら厭わないほどに。
だがその主、シャンクスには突拍子もないところがあって、時々ベックマンが唖然とするようなことをやらかしたりする。
“本業”で無茶をやらかすのならまだいい。
不測の事態ならば仕方がない。基本的に何が起きてもおかしくない職種だ。
大概の事に対する耐性も心構えも出来ている。
どんな艱難辛苦が来ようとも、シャンクスの為ならば何一つ苦になどならない。
だが、当のシャンクスときたら、どう見ても必要のないところで必要のないバカな真似をしでかすのだ。
それでも惚れた弱みでベックマンはそんなシャンクスをなんだかんだと最後には許してしまってきた。
数年前に、たまたま通りがかっただけのケンカに首を突っ込んで、利き腕の左肩を傷つけ、肩から下の機能を失ってしまった事も、痛ましかったがベックマンは飲み込んだ。
その時に助けた形になった妊婦が、その場で産気づいた挙句に出産と同時に死んでしまい、身寄りのなくなってしまった赤ん坊を引き取ると言い出した事も、ベックマンは納得した。
24という若さで幹部になっていたシャンクスが、とても承服しかねる理由でこんな田舎に蟄居させられたときも、ベックマンは組織の中で唯一、シャンクスに付き従ってこの田舎にやってきた。
けれど。
「あんた、頭おかしいんじゃないですか!?」
さすがのベックマンもシャンクスの腕の中にあるものを見て、声を荒げた。
荒げたと言うより、あまりに呆れて声なんかひっくり返っていた。
シャンクスの腕の中には小さな仔犬が一匹。
ふらりと散歩に出た時に、たまたま『子犬あげます』の張り紙を見つけて覗いた家で、この一匹だけ残っていたから貰ってきてしまったのだそうだ。
それは別にいい。
どうせシャンクスは現在ほぼひきこもり状態だ。
犬の世話をする時間など有り余っているし、シャンクスとベックマンと引き取った子供の三人だけで住むにはこの家は少々大きすぎる。
問題は、シャンクスがつけるといって聞かないその犬の名前だ。
シャンクスは、その犬に『ゾロ』とつけると言って譲らないのだ。
冗談じゃない。
『ゾロ』と言う名前は、シャンクスの属する組織と対立する組織の最高幹部の息子の名前だ。
その最高幹部は、そう遠くない先に、対立組織のボスの座を継ぐ事が、既に決まっている男だ。
そして、今までは対立組織だったが、今後、シャンクスの属する組織と、少なくとも表向きは友好関係を持たなければならない事になっている、という微妙な時期でもあった。
更に、その最高幹部の息子は、まだ小学生であったが、充分に才覚を持った子供であるらしく、最高幹部が後を継がせるべく英才教育の粋を施しているという話は、この世界の人間ならば知っていて当たり前の事実だ。
そんな時に、飼い犬にその息子の名前をつける、等と言う事は、洒落や酔狂では済まされない無礼であった。
「なんでわざわざそんな事すんですか!」
ベックマンの声は絶叫に等しかったが、シャンクスは人を食った笑みを浮かべるばかりで取り合おうともしなかった。
最愛の息子の名前を犬につけられて気分のいい者はいないだろう。
ましてや、ライバル組織の、自分よりずっと格下の幹部に。
あちらは次期ボスの名実共にNo.2の最高幹部、シャンクスは肩書きこそ同じbQの幹部だが、実質は更迭同然にこんな田舎に引っ込まされている。
立場が全然違うのだ。
こんな事が人の口伝いにでも最高幹部や、シャンクスを蟄居させた長老達の耳に入ったらと思うと、考えただけで恐ろしい。
どうしてたかが犬の名前ごときでこんなに心臓の縮む思いをしなければならないのだ。
というより、どうしてポチでもシロでも犬の名前などごまんとあるのにわざわざこんなリスキーな名前をつけなければならないのか。
「犬の名前なんて何だっていいでしょう? なんで寄りに寄ってその名前なんですか!」
「何だっていいならこの名前でいいじゃねェか。なーゾロー?」
だから何故その名前で犬を呼ぶ!
「まァ、そういきりたつなって。お、そろそろルフィの帰ってくる時間じゃねェか。迎えに行くぞー。」
一方的に話を終わらせて、シャンクスは仔犬を抱いたまま表に向かって歩き始めた。
ベックマンはその後を慌てて追う。
ルフィと名付け、手元に引き取った赤ん坊は、もう4才だ。
毎日元気に幼稚園に通っている。
シャンクスの血など一滴も入っていない赤の他人なのに、ルフィは不思議なほどシャンクスに似ている。
引き取った経緯を知っている者にすら、もしかしたら血縁なのではないかと錯覚させるほどに。
シャンクスはルフィに何一つ隠し事をしない。
もっとずっと幼い頃から、シャンクスは、ルフィに、自分が本当の親ではないこと、母親は死んだこと、父親は誰かわからないこと、を、詳らかにしてきた。
だが、それと一緒に、「何故引き取ったかと言うとなんとなく」とか、「なりゆきで」とか、「子育てしたことなかったから面白いかと思って」とか、「ボスのドーベルマンよりすごいもん飼ってみたかったから」などという余計なことまでシャンクスは付け加えるものだから、ベックマンは、この子供がぐれたりはしないかと本気でハラハラした。
幸いにして、ルフィは実に素直ないい子に育ってくれていて、今のところまだぐれる気配はない。
まあまだ4才なのでぐれようがないのかもしれないが。
近所のタバコ屋の前まで来て、シャンクスは立ち止まる。
ここが幼稚園バスの停まるところになっているのだ。
ベックマンは、シャンクスの左側に回り込んで立つ。
ベックマンが、己の立ち位置をシャンクスの左側、と定めたのは、4年前、シャンクスの左腕が、その機能を止めてからだ。
4年前の一件は、ベックマンが随行していないときに起きた。
ベックマンがその日のことを後悔しない日はない
自分が傍にさえいれば、シャンクスが左手の機能を一生涯失う事などさせなかったろうに。
もう二度と、シャンクスから何一つ奪わせはしない。
その決意が、ベックマンをシャンクスの左側に立たせている。
本当は、奪わせないどころか、ベックマンは、シャンクスという男はこの世の全てを手に入れるに値する男だと思っているのだ。
例え片翼をもがれようとも、いつの日か必ずやこの蒼穹に大きく羽ばたく鳥になると信じている。
それほどまでに、ベックマンはこの主に惚れ込み、魅せられているのだ。
そのまま二人で待っていると、やがて、向こうの方から山吹色の可愛らしいバスがやって来た。
バスは、シャンクスとベックマンの前で止まる。
「シャンクス!ベックマン!ただいまー!」
元気よく黒髪の子供が降りてくる。
「お帰り、ルフィ。」
と、シャンクスがいつものように笑顔で出迎える。
だが、いつもならルフィの頭を優しく撫ぜてくれるはずの右手は、今日は懐で組んだままだ。
ルフィが怪訝そうに小首をかしげ、シャンクスの腕の中を覗き込む。
「あ!」
シャンクスの腕の中には、小さな仔犬が眠っている。
「うわあ…!」
ルフィが黒曜石のような黒い瞳をキラキラと輝かせた。
「ゾロだ。今日からこいつもうちの子だ。」
だからその名前はやめてください、とベックマンに止める暇も与えずに、シャンクスがあっさりとその名を言う。
「ゾロ! ゾロかお前!」
ルフィが嬉しそうにその名を呼ぶと、眠っていた仔犬が目を開けた。
「ゾロ!」
目覚めた仔犬は、その大きな茶色の目で、ルフィをじぃっと見た後、差し出したルフィの指をぺろっと舐めた。
ルフィが、顔中に満面の笑みを浮かべる。
「ゾロ…!」
こうして、“ゾロ”はシャンクスの家の子になった。
◇ ◇◇ ◇ ◇◇ ◇
ゾロは番犬としてもルフィの友としても実に理想的な相手だった。
もらってきた当初は、ルフィでも抱えられるくらいに小さく可愛かったのだが、あれよあれよという間に大きくなり、一歳になる頃には、ゾロは実に立派な堂々とした体躯の犬になった。
吼え声も腹に響くようないい声だが、ゾロは決して無駄吠えをしない。
散歩の時も、連れているのがルフィかシャンクスかでちゃんと歩調を切り替える賢さもあるし、よその犬と揉め事も起こさない。
来客には礼儀正しく、不審者には容赦がない。
犬にしておくにはなかなか惜しい気骨を持った男だ。
これが人間だったら、見た目も中身も、さぞかしシャンクスの側近として映えただろうに。
ベックマンはそんな事を思ったりもした。
なるほど、“ゾロ”の名は伊達ではないらしい。
ゾロが名前を貰った“ゾロ”は、今年の夏、小学4年生という紛う方なき子供でありながら、敵対組織に父親と共に殴りこみ、大立ち回りを演じてのけたのだと、ベックマンのところにまですら武勇伝が聞こえてきた。
話の真偽や詳細は定かではないが、その一件は確実に“ゾロ”を父親の後継として歩ませている。
小学生にして既に人生の大半のレールの敷かれている子供。
ある種の階級の人間であれば、そんな子供はざらにいるのだろうけれど、それでもベックマンは、その事実に違和感を抱かずにはいられない。
文武に冴え、齢10歳かそこらで得物を振り回して人間を傷つける事に長けた子供。
異常ではないのか、それは。
そんな子供が本当にいるのだろうか。
“ゾロ”の名が一人歩きして、噂に枝葉を生やしているだけなのではないのか。
或いは、父親の属する組織あたりが、故意に誇張した噂をばら撒いてでもいるのか。
だとしたら、何のために?
去年、シャンクス達が属する社会の組織図が根底から覆されるような大きな抗争があった。
その抗争で、伝説とまで謳われた、シャンクス達の組織の大ボスが命を落とした。
シャンクスはその詰め腹を切らされて、表舞台から下ろされ、こんな田舎で日向ぼっこ生活をする羽目になったのだ。
それはベックマンにとっては業腹以外の何ものでもなかった。
大ボスの死はシャンクスの責任などではありえない。
それどころか、シャンクスがいなければ抗争はもっと酷いものになっただろう。
組織そのものの屋台骨すら揺らぎかねないものになったはずだ。
なのに長老達は、その全ての責任をシャンクスに押し付けた。
若くして幹部に上り詰めたシャンクスへの、それは報復と見せしめだった。
大ボスに一番信頼され、可愛がられていたのはシャンクスだ。
世襲にこだわらなかった大ボスは、シャンクスを後継にすることを視野に入れていただろうし、それを周りの人間にも匂わせていた。
当然、面白くないと思う者など、ごまんといた。
危うい均衡は、大ボスの死によって崩れた。
シャンクスは幹部の肩書きのまま、舞台を引き摺り下ろされ、この土地に追いやられた。
この一見のどかな生活すら、警備、という名の監視がついている。
そんなにも危険視されながら、シャンクスが肩書きを剥奪されたり、抹殺されたりしないのは、実のところ、長老達の中でも意見がまとまっていないからだ。
大ボス亡き後、一枚岩の結束を誇っていたはずのこの組織は、がたがたの穴だらけの歪な組織と化してしまった。
更には、大ボスがあまりにも伝説的なカリスマであったせいで、自らもかくありたいと思う者達が急激に牙を見せ始めた。
ベックマンは、その資質を持った男達の一人が、“ゾロ”の父親ではないかと睨んでいた。
“鷹の目”との異名を持ち、現在、最強と謳われ、シャンクス達の組織に肉薄するほどに組織を巨大化させつつある男。
だが、もしかしたら、鷹の目自身は、或いは自らでなくその息子に、伝説の名を冠しようとしているのかもしれない。
それがこの噂の、真の目的だとしたら。
いよいよもって“ゾロ”は厄介だ。と、ベックマンは思った。
◇ ◇◇ ◇ ◇◇ ◇
ゾロの次に“うちの子”になったのは、ナミだった。
ナミは、動物病院の前に捨てられていた猫だった。
まるで血統書つきのような美しい毛色の猫だったが、捨てられたところを見ると、恐らくは、ペットの血統書付が野良猫にでも孕まされてしまったというところだろう。
ベックマンは猫には詳しくないが、血統書付は野良の仔を孕んだ時点で価値が下がるものらしい。
人間で言えば、深窓の令嬢がごろつきに孕まされたと言うところか。
なるほど、それでは産まれた仔は秘密裏に始末せねばなるまい。
動物病院に捨てられた猫は、箱に詰められて4〜5匹いたのだという。
それを、何の縁でか、ルフィと同じ幼稚園の一年上の女の子が貰い手を捜していて、回りまわってその話がルフィのところに来たのだ。
話を聞いたルフィは男らしくもその場で猫の引き取りを快諾し、シャンクスやベックマンに全く相談することなく、雌猫を一匹もらってきた。
普通の親なら怒るか何かするものなのだろうが、シャンクスは、「男が決めた事に口出しできるか」と、何一つ小言を言わなかった。
ルフィは、貰ってきたその猫に、くれた年上の女の子の名前をつけた。
「ナミがくれたんだから、この猫の名前はナミ。」
いいのかそれで。と最初こそベックマンは思ったが、すぐに、もしかしたらルフィは“ナミちゃん”が好きなのかもしれない、と思い直した。
ナミは、猫だから当たり前なのだろうが、犬のゾロとは正反対の性格をしていた。
家族みんなに等しく懐いているゾロと違って、ナミはルフィにしか懐かなかった。
懐かないというより、ナミは、ルフィ以外の人間は目に入っていないようで、シャンクスもベックマンも、綺麗に存在ごと無視された。
ルフィも、まだ5歳と言う幼さながら、ナミの愛情にちゃんと答えた。
猫えさを買い揃えるのだけはベックマンの役目だったが、ルフィはそれを、毎日ちゃんと量を測りナミに与えた。
もう使わなくなった、赤ん坊用のミッフィーさんのプラカップに、朝と夕方、一杯ずつ。
子供が自分以外のことで毎日同じ事を継続すると言うのは大変なことだろうと思ったのだが、ルフィはそれをやってのけた。
もちろん、ゾロという前例がいたから、比較的ルフィもやりやすかったに違いない。
ただただ可愛い小さな猫は、年中さんだったルフィが年長さんになる頃には、近所でもずば抜けて美しい猫になった。
毛色は血統書付の洋猫そっくりなのに、顔と体つきは和猫らしく小顔で毛並みも美しく、物腰も妙に色っぽい。
プライドもなかなかに高いようで、いつでも少し澄ましたような気取った、それでいて毅然とした歩き方をする。
まるで気位の高い女王様だ。
ナミがそんなだから、シャンクスもベックマンも、いないかのように無視されてもあまり腹は立たない。
むしろ、はいはいお姫様、と傅く気持ちにすらなってしまうから不思議なものだ。
人間の女だったら、さだめしこぞって落としたくなるようなイイ女だったことだろう。
だが、その気の強さが災いするのか、ナミは、美しい容姿に似合わず、存外にケンカっ早い。
しかも、ベックマンが見た限りでは、ナミはなかなかにえぐい戦い方をする。
ベックマンが二階のテラスに布団を干していたときの事だ。
ナァ〜〜〜という、特有の剣呑とした鳴き声が聞こえて、ベックマンはひょいと庭を覗き込んだ。
更迭されたとはいえ、表向きだけでも幹部の肩書きの残っているシャンクスの住むこの家は、敷地面積はかなり広い。
車が10台弱は余裕に駐車できる砂利の庭を、槇の植木と高価な庭石で整えてある。
もっとも、ベックマンだけではなかなか庭まで行き届かないせいもあって、あまり手入れはされていないのだが。
ゾロもその広すぎる一角を与えられていて、可動式のワイヤーで繋がれているゾロは、その範囲内ならば好きに動くことができる。
そんな広い庭だから、近所の猫もよく入り込む。
ナミの、“ルフィだけが好き”は猫相手にも健在で、ナミは、自分のテリトリーに入り込むよその猫を許さない。
中にはナミを口説きに、とか、仲良くなりたくて、という猫もいるのではないかと思うのだが、すべからくナミは、威嚇して追い返す。
相手によっては喧嘩となる。
ベックマンが二階のテラスから庭を覗き込んだときも、まさに事態は一触即発の様相を呈していた。
ポジションはナミが上、闖入者が下だ。
たしか以前、猫の喧嘩は高い位置にいた方が優勢と聞いたことがある。
だとすると、停まっている車のボンネットの上から相手を睨み付けているナミが優位だと言うことか。
中ランクとはいえ黒塗りのベンツだというのに、その上は、ナミの足跡でいっぱいだ。
ナミは、城から民衆を見下ろす女王様よろしく、相手を睥睨している。
その喉からは普段ルフィに甘えている声からは想像もつかない低めの唸りが出ている。
人間だったら姐さんのドスの効いた因縁、とでも言うところか。
相手はややビビリが入っているのか、高めの声で応戦している。
互いに全く動かず睨み合っている。
調子を変え、高低を変えて、その口喧嘩はしばらく続いた。
両者ともなかなか動かない。
なるほどこれが猫の喧嘩か、とベックマンは感心した。
動いていないように見えて、両者ともじりじりと間合いを図っているのがわかる。
その様は人間の喧嘩に通じるものがあった。
お互いに威嚇の警戒音を出しながら相手の力量を図り、隙を窺う。
恐らく、決着は一瞬だ。
ベックマンがそう思った瞬間、ナミが動いた。
飛びかかるのかと思いきや、ぽんと後ろに飛んで、逃げの体勢を取る。
相手の猫が弾丸のように突っ込んでいく。
優勢に見えたのに、逃げ、という手段を取ったナミに、ベックマンが肩透かしを食った気分になった次の瞬間、ナミが奇妙な動きを見せた。
直線に逃げると見せかけて、くるりと体を反転させ、別の車の影に素早く回り込んだのだ。
追ってきた猫は真っ直ぐに突っ込んでくる。
ナミを追い詰めたと思い、突っ込んだその先は─────ゾロのテリトリーだ。
いきなり目の前に現れた大きな犬に、猫は飛び上がった。
比喩でなく、本当に1m近くほぼ垂直に体が浮いた。
泡を食った相手猫は、這う這うの体で一目散に逃げていく。
それを、ナミは、涼しい顔で毛繕いなどしながら、眺めていた。
すげぇ女だ。
自分では何一つ戦わず、喧嘩に勝っちまいやがった。
挑発するだけ挑発して。
ベックマンは思わず心の中で賞賛を送った。
正々堂々、という観点から見れば、挑発しておいて逃げ出し、ゾロの力を借りたナミの戦法は卑怯といえるのかもしれない。
プライドが高い猫だから、突っ張り通して真っ正面からぶつかるのかと思っていたが、案に相違して、ナミはあっさりと逃げた。
しかもわざと相手に隙を見せて犬小屋に追い込む、という老獪で小賢しい逃げ方だ。
逃げるというより、誘い込んだ、というのが正しいだろう。
その動きは、計算しつくされていて鮮やかな程だった。
ナミは相手から一目たりとも離さず、唸り合いながら、きちんと自分の位置、ゾロの位置、車の位置、を把握していた。
挑発は派手に、少ない犠牲で大きな結果を。
ナミの動きはまさにそれだ。
うちの組織にこれだけの軍師がいたら、或いは大ボスは死なず、シャンクスも第一線のままだったかもしれない。
ベックマンは、思うともなしに、そんな事を思い、口元に微苦笑を浮かべた。
◇ ◇◇ ◇ ◇◇ ◇
その年、永久に続くかと思われたこの生活に、ひとつの変化があった。
変化を始めにもたらしたのは、一人の男だった。
男の名はヤソップ。
かつてベックマンと同じく、シャンクスの兵隊だった男だ。
ベックマンと違い、組織に残ったため、今では組織の直参となっている。
それを裏切りだとはベックマンは思わない。
進むべき道が違っただけの事だ。
ヤソップには妻もいて子もある。
独り身のベックマンとは違う立場もしがらみもあるのだ。
だが、それが今のシャンクスを脅かすとなれば、敵に回すのも致し方ない。
ベックマンの主命は何よりもまずシャンクスを守る事にあるのだから。
だから、きちんとスーツを着たヤソップが、単身で現れた時、ベックマンは全身から警戒と殺気を漲らせた。
「おいおい、んな物騒な気は鎮めてくれ、刺客じゃねェよ。」
かつて蟻の眉間だって撃ち抜ける、と豪語した事もあるほどの射撃の名手は、ベックマンに向かって困ったような笑みを浮かべてそう言った。
「2年ぶり、くらいか? 変わんねェなァ、ベックマン。」
「…用はなんだ。」
「その前に、会長はどうした?」
“会長”、と、母体組織での肩書きではなく、今は有名無実となってしまったシャンクス自身の組織での肩書きを呼ばれ、ベックマンが、ふっと気を緩める。
「会長は犬の散歩だ。」
普段は、この家の中ではベックマンはシャンクスを呼び捨てにしている。
だが、本来シャンクスとベックマンは主従なので、人前では肩書きで呼ぶのだ。
「へぇ、犬飼ってんのか。犬種は何だ?」
「犬の種類なぞ俺は知らん。でかい犬だ。」
「でかい、っていうと、シェパードとかハスキーとか…、」
「そんなご大層な犬じゃねぇだろう。近所のをただでもらってきたんだから。雑種だろうよ。」
答えながら、ベックマンは、犬の話題など振ってしまった事に内心ヒヤリとしていた。
このところ平和ボケしていたせいでうっかりしていたが、うちの犬の名前はリスキー極まりないものだった。
更迭されて三年余、最初の内こそ警備と称した見張りもあり、ベックマン達も警戒しながら過ごしていたものの、あまりに緊張感のないのんびりした生活で訪問者も近所の年寄りとダスキンさんくらいの日々を送っていたら、いつの間にか組織の見張りは来なくなってしまっていたし、最近ではルフィなんか平気で馬鹿でかい声でゾロを呼んだりしていた。
緊張感がないにも程がある。
突然現れたこの知己が、組織の息のかかった者でない保証など、どこにもないのだ。
むしろ、何らかの組織の意志を携えてやってきたであろう事は想像に難くない。
「犬の話はどうでもいい。会長に用か?」
やや強引に打ち切って、ベックマンはヤソップを促した。
「いんや。用はお前さんにだ。“常務補佐”。」
ぴくり、とベックマンが僅かに眉を顰めた。
シャンクスの母体組織での肩書きは“常務”。ベックマンはその補佐だ。
今ヤソップがその肩書きでわざわざベックマンを呼んだという事は、いよいよもって、ヤソップの用件は母体組織がらみだと言うことになる。
その時だった。
「あんだー? 懐かしい顔だなあ。」
不意に声がして、ベックマンとヤソップが揃って振り向いた。
シャンクスが笑顔で立っている。
「おかえりなさい。」
「御無沙汰してます。会長。」
声がするまで全く気配を感じなかった。
シャンクスはともかく、犬のゾロまで気配を絶ってるのはどういうわけだ。
「立ち話もなんだから、上がれよ。ビールと焼酎どっちがいい?」
「いや、俺、車なので、」
「ポン酒か。」
「勘弁してくださいよ。」
シャンクスが先に家に入り、ヤソップが「お邪魔します」といいながらその後に続く。
その背中を見ながら、ベックマンも家の中に入っていった。
◇ ◇◇ ◇ ◇◇ ◇
「まァ、単刀直入に言うと、ベッマン、お前さんに、“本部”に戻れとのお達しだ。」
座敷に腰を下ろし、出した茶(さすがにアルコールは出さなかった)を一啜りしてから、ヤソップは切り出した。
「…断る。俺は本部直参の兵隊じゃない。シャンクスの側近だ。」
にべもなく撥ね付けると、ヤソップが苦笑する。
「即答だねェ。だけど俺も子供の使いじゃないんでね。断ります、はいそうですか、では帰れんのよ。」
「お前の事情など知らん。」
「お前さんの返答次第では会長の首が飛ぶと言ってもか?」
「何…だって?」
気色ばんだベックマンとは裏腹に、シャンクスは涼しい顔で湯呑み茶碗に日本酒を注いで呑んでいる。
確かに最初は、ヤソップに出したのと同じ茶を淹れてやったはずなのだが、いつの間に酒に摩り替わっているのか。
ヤソップは、そんなシャンクスにちらりと視線をやってから、ベックマンに向き直った。
「お前さんの役職はそもそも常務補佐だ。常務不在の現在、補佐が本部に来てその勤めをするのは当たり前だろう、というのが長老達の言い分だ。もしお前さんが断れば、直属の上役である常務自身に造反の意志ありと見て、会長は処分の対象になる。」
「会長を常務から引き摺り下ろしたのも、こんなところに押し込めたのも、長老達だろう。」
怒りを押し殺してベックマンが答える。
「引き摺り下ろしちゃいねェ。“赤髪のシャンクス”は昔も今も変わらず組織No.2の肩書きを持っている。我らオーロ・ジャクソン・ファミリーの常務であり、俺ら赤髪会の会長だ。」
「…詭弁を。」
「詭弁でも何でも、それが“事実”だ。」
ベックマンが険しい顔のまま押し黙る。
ヤソップも黙って茶を啜る。
束の間、重苦しい沈黙が室内を支配した。
その緊張感を破ったのは、シャンクスだった。
「話はわかった。ベックマンは週明けから“本部”に詰めさせる。」
「な……!!」
「お口添え、恐れ入ります。」
驚くベックマンの向かいで、ヤソップはシャンクスに深く頭を下げた。