血の深緋の烈華の如く
【 漆 】
─────その瞬間、何が起こったのか、サンジにはすぐにわからなかった。
刀を振りかぶってアーロンに斬りかかったのはゾロの方だった筈だ。
ゾロの刃は確かにアーロンを的確に狙っていたはずだ。
なのに。
なのに何故。
血だまりの中で倒れているのが、─────ゾロの方なんだ…?
─────ゾロ─────!!!!!
その名を絶叫した。絶叫したはずだった。
けれどサンジの声は音を成さず、ただ喉からひゅーひゅーと苦しげな息ばかりが出た。
アーロンめがけて振り下ろしたゾロの刀は、寸前でアーロンに押さえ込まれた。
体を入れ替えられ、ゾロの手からもぎ取られた青龍刀は、今度はアーロンの手でゾロを襲ったのだ。
容赦しない、と言った言葉どおり、アーロンは無造作にゾロの体を袈裟斬りにした。
赤い赤い、深い緋色の華が、突如ゾロの体から咲いたように、見えた。
その、烈華の如き深緋が、瞬く間にゾロの体を染める。
ゾロの体が前のめりに頽れていく。
倒れたゾロの体の下から、どす黒い染みがどんどん広がっていく。
ゾ、ロ…。
ゾロ
ゾロぉっ…!!!
体の痛みも忘れて、サンジは必死に出ない声を振り絞って叫ぼうとした。
無我夢中で手をゾロの方に伸ばす。
「あーあ、カーペットが台無しじゃねぇか。」
ゾロの血が広がった床を見ながら、アーロンが言った。
その染みを土足で踏みにじりながら、ゾロに近づく。
ゾロの喉輪を掴んでその体を持ち上げながら、アーロンはゾロをせせら笑った。
「バカが…。お前がもしあと10歳も歳を食ってたら、或いは傷くらい残せたかもな!!!」
アーロンに傷を負わせるには、子供のゾロは、まだあまりに未熟だった。
体躯に劣り、腕力に劣った。
かなうはずが、なかったのだ。
ゾロを嘲り笑おうとしたアーロンが、不意に押し黙った。
瀕死同然と見えたゾロの手が、アーロンの腕を掴んでいた。
その手に力が篭る。
「…何故まだ動ける…!?」
心底意外だ、というふうにアーロンが呟いた。
ゾロが喉を締め上げられながら、顔を上げる。
その瞳はしっかりとアーロンを見据えている。
研ぎ澄まされた殺意にぎらついている。
子供とは思えないほど、いや、子供だからこそ純粋で濁りのない、凄まじいまでの憎悪と殺意がそこにあった。
刹那、アーロンはその瞳の光に狼狽し、狼狽した自分に気がついて、その事実にまた狼狽した。
─────なんて目をしやがる。これが子供の…しかも死にかけてるやつの目か…?
「小僧…。貴様、どこの誰だ。」
低く問うたアーロンに、ゾロは、血にまみれた顔でにやりと笑って見せた。
「ジュラキュール・ミホークの後継、ロロノア・ゾロ。」
ぜえぜえと荒い息の下から、不適に笑ってゾロは答えた。
「─────鷹の目の息子か!!??」
瞠目したアーロンは、しかし次の瞬間、驚愕を残忍な笑みに変えた。
「つまり、貴様は今、確実にここで殺しておかねばならん男だと言うことだな。」
アーロンがゾロの喉輪を締め上げたまま、青龍刀を振りかざした。
今度こそゾロの体に致命傷を与えるかに見えた青龍刀は、けれど、小さな力に阻まれた。
アーロンが怪訝に、振り上げた腕を見れば、立つことすら出来なかったはずのサンジが、渾身の力でその腕に取りすがっている。
ちっ、と舌打ちしたアーロンは、
「邪魔だ、稚児風情が!!」
と力任せにその腕を振りぬいた。
サンジの体はあっけなく床に叩きつけられる。
声もなくその場に昏倒するサンジ。
「サン…!」
ゾロの声もまた、喉から溢れる血でごぼっと濁った音を立てた。
その時だった。
「そこまでだ。アーロン。」
凛とした父の声が、響き渡った。
遅ェよ、クソ親父…。と思いながら、その声を耳にした瞬間、ゾロも安心したように意識を手放していた。
□ □ □
ゾロが病院で目覚めた時、事態はすべて収束していた。
アーロンはゼフの元に連れて行かれ、ミホーク、センゴク立会いの下、“しかるべき報復”をされたあと、ジンベエの元に送られた。
義侠に厚いジンベエは怒り心頭のまま、アーロンを“処分”した。
涙ながらにゼフとミホークに詫びを入れ、自らの進退にも言及したがセンゴクのとりなしでそれを収めた。
アーロンの組織は解体され、アーロンのシマは、引き継いだゼフのシマごと、詫び状代わりに、と、ジンベエからセンゴクに送られた。
ゾロは命は取りとめたが、肩口からわき腹にかけてざっくりと斜めに大きな傷が残った。
斬ったのがノコギリ状の刃物だったため、傷は引き連れて醜く残るだろうとのことだった。
ゾロは、夏休みが明けても学校に行く事はできず、長い入院生活を送ることになった。
だが、その入院生活はそれほど退屈なものではなかった。
何故なら、同じ病院にサンジも入院していたからだった。
サンジの背骨にはひびが入っていて、もし折れていたら脊髄が損傷していただろう、と言うほどの大怪我だった。
ゼフはサンジを巻き込んだことを深く苦悩していたが、サンジは頑としてゼフの元を去らないと言い張った。
そして、傷も癒えて別れの日、サンジは初めてゾロの胸の傷をゾロに見せてもらった。
ゾロの胸の大傷を目の当たりにしたサンジは、その大きな蒼い瞳から、ぼろぼろと涙を流しながら、何度も「ごめん」と「ありがとう」を繰り返した。
「何言ってんだ、バカ。謝る必要も礼を言う必要もねェよ。それ言うなら俺だって、助けに行ったのにかっこわるくてごめん、動けない体で必死にアーロン止めてくれようとしてくれてありがとう、だ。」
ゾロがそう言うと、サンジはますます大粒の涙を流した。
「こん、どは、おでがっ…おでが、守゛るっ…。」
「あ?」
「おでが、お前゛を守゛る…。ぜっだい、ばぼる…。」
「バカ言え。お前に守ってもらわなきゃならないほど俺は弱くねぇぞ? 俺はもう二度と誰にも負けねェ。あん時だって俺の刀を持ってきてりゃ負けなかったんだ。」
「だったら! だったら、おでがなる! お前の刀に、俺がなる!」
「サンジ…。」
必死にゾロに訴えるサンジを、ゾロは困ったように見つめた。
「刀は…、刀はもうある。母ちゃんの形見の刀なんだ。だから、お前が刀になる必要なんてねぇ、サンジ。」
「ゾロ…!!」
「それに、俺が使うのは太刀だ。お前みたいなチビ、刀になったって懐剣にしかなんねェよっ!」
何故だか苛ついて、ゾロはサンジを突き放つように叫んだ。
「カイケン?」
サンジがきょとんとゾロを見る。
その、まだ涙がぶらさがったままの邪気のない目に、途端にゾロは先刻の言いようを後悔して、
「…懐剣ってのは、ふところの中に入れて持つ小さな剣の事だ。敵を倒すための太刀と違って、懐剣は、自分の身を守るための守り刀だ。」
と、ぼそぼそと早口で言った。
すると、サンジの顔が、途端にぱあっと明るくなった。
「なら、俺、それになる。」
思わずどきりとするほど、嬉しそうな笑みだった。
「ゾロは、お母さんの刀で敵を倒せばいい。俺は、お前の守り刀になる。」
「いらねぇって言っただろう!!!」
耐え切れず、怒鳴ってしまった。
サンジが仰天した顔で、ゾロを見ている。
ハッとして、ゾロは慌てて下を向いた。
唇が白くなるほど噛み締める。
「…ゾロ?」
サンジが大きな目を真ん丸くして不思議そうにゾロを覗き込んできた。
こういう顔をすると、サンジは本当に幼くなる。
顔立ちも優しいから、小学校低学年の女の子にしか見えない。
こんな子供に、あの男は、あんなにひどいことをしていた。
まだ目の裏に焼きついている。
大きな体躯に組み敷かれた、小さな体。
はみ出た白い足。
ずたずたに裂かれた服。
ゾロに向かって必死に伸ばされた、小さな手のひら。
一瞬のうちに、目の前が怒りで真っ赤になった。
本当に視界が赤く染まった。
目から鮮血が噴き出していたのかと思うほど、あの時の光景は、ゾロの中で赤い。
赤い視界の中で、サンジの体だけが鮮やかに白かった。
二度とあんな目に合わせたくないのだ。サンジを。
それに、ゾロは、サンジにこんな事を言わせるために、サンジを助けにいったわけでもない。
ただ助けたかっただけだ。
自分の手でサンジを救い出したかっただけだ。
この手でサンジを。
だから。
だから─────
「俺に恩を感じてそんなこと言わなくってもいい!」
俯いたまま、ゾロは怒鳴った。
目をぎゅっと閉じていないと、涙が出そうだ。
子供のようにわめき散らして、大声で泣いてしまいたいような気分だった。
実際にゾロは子供だったけれど。
どうしようもなく子供だったけれど。
結局サンジを救ったのだって、父だ。ゾロじゃない。
サンジがゾロに恩義を感じる必要など、どこにもない。
「違うよ、ゾロ。」
柔らかな声が、耳元でした。
思わず、はっと目を開けたゾロは、目の前にサンジの笑顔を見て絶句した。
「違うよ。恩返しにゾロを守りたいんじゃない。」
「ッ…、じゃあ、なん、だよ。」
「ただ、ゾロを守りたいんだよ。ゾロが俺を助けてくれたように、俺もゾロを守りたいんだよ。」
「だからそれは、」
「ゾロは!」
言いかけたゾロを、サンジが大声で遮った。
その目が潤んでいるのに気がついて、ゾロが押し黙る。
「…ゾロは、なんで助けに来てくれた? 目の前で俺がつれていかれたから? 責任を感じて?」
「違う!!!」
瞬時に激昂して、ゾロは叫んだ。
なんということを言うのだ、サンジは。
「お前が好きだからに決まってるだろうが!!!!」
「俺もだよ、ゾロ。」
ふわりと柔らかな感触がゾロを包んだ。
サンジに抱きしめられている、とわかって、ゾロが目を見張る。
「俺もゾロが好きだ。だからゾロの守り刀になりたい。ずっとゾロのふところの中でゾロを守りたい。」
ぎゅうぎゅうと抱きつかれながらそう言われ、ゾロはもう我慢できなくなった。
自分もサンジの体を力いっぱい抱きしめた。
抱きしめて、不覚にもゾロは泣いてしまっていた。
「サンジ…サンジ、サンジ…っ!」
何度も名を呼びながら、ゾロはサンジの体を抱き締めた。
いろいろな感情が綯い交ぜになって涙が溢れて止まらなかった。
泣きながらサンジの名を呼ぶゾロの頭を、サンジは優しく撫で続けてくれた。
まるで幼な子を撫でる母のように。
そうして、ゾロの耳に囁き続けた。
「俺、強くなる。ゾロを守れるくらい、強くなるよ。ゾロ、大好きだ。大好きだよ。」
2007/03/30