血の深緋の烈華の如く
【 壱 】
社長室で一人、書類に目を通していたゾロは、はあ…とため息をついて書類を机に投げ出した。
頭を抱えたくなる。
「若」から「社長」と呼ばれるようになって半年。
もう半年、と見るべきか、まだ半年、と見るべきか。
ゾロの立場は、ゾロの父親である、“鷹の目”ジュラキュール・ミホークの下部組織のボスだ。
任されているシマは、半年前までは鷹の目のシマだった。
ボスが変わったからと言って、そこからの上納金の額が落ちるようなことがあってはならない。
そして、ゾロは、その手腕と才覚を充分に期待された、鷹の目の後継であった。
そのゾロが、眉間を寄せ、じっと何か考え込んでいる。
不意にノックの音がした。
「誰だ。」
『社長、ミホーク会長からのお迎えがいらっしゃいました。クルッポー』
かちゃりとドアが開いて、“常務”のルッチと鳩が顔を覗かせる。
「あァ…。」
うんざりとした顔を隠しもせず、ゾロは、先刻机に投げ出した書類を茶封筒に収めた。
ルッチが社長室に入ってくる。
『ポッポー俺も同行しましょうか?』
ルッチの肩に乗った鳩が言う。
「クソ親父のとこなんざ、俺一人で充分だ。お前はパウリーが帰ってくるまで代理を頼む。」
“専務”のパウリーは今、ウィスキーピークに“出張”している。
ゾロはルッチに当面の指示を与え、手早く書類を鞄に放り込むと、社長室を出た。
事務所のソファに迎えが待っている。
それが誰かを見てゾロはぎょっとした。
「先生!!」
ゾロが慌てて居住まいを正す。
ゾロの父・ミホークの秘書であるコウシロウは、同時にゾロの幼い頃からの剣の師匠でもあった。
「やあ、ゾロ君。」
「どうして先生がわざわざ…。」
子組織のボスの迎えに来る、などという仕事は、下っ端の仕事であって、仮にも鷹の目の側近であるコウシロウがすることなどでは決してない。
けれど、ゾロの言葉にコウシロウは柔和な笑みを浮かべて見せた。
「それはゾロ君が悪いんですよ。独立してからさっぱり本家に顔を見せなくなったから、こちらから迎えをやるようにまでしたのに、それでも何度かすっぽかしたでしょう? 相手が私ならよもや逃げられまいとのミホーク様のご配慮です。」
それを聞いて、ゾロは思わず、今この場にいない父親に対して、ちっと舌打ちをした。
「すいません。先生に迎えに来ていただくなんて…。」
頭を下げるゾロに、コウシロウは穏やかに微笑む。
「いいんですよ。私も君が元気にしているか来てみたかったのだし。さあ、行きましょうか。下に車を待たせてあります。」
にこやかに促されて、ゾロは、コウシロウと共に事務所を後にした。
□ □ □
ミホークの屋敷は元は伯爵家のお屋敷だったとかいう、古いが豪奢な大邸宅だ。
このだだっ広い大邸宅に、ミホークは一人で住んでいる。
もちろん、側近達を始め腹心の者達や構成員も数多く共に寝起きしているため、厳密には一人暮らしとは程遠い。
だが、この屋敷に、ミホークの妻も子も同居していない。
ミホークの妻は、その命と引き換えにゾロをこの世に生み出した。
ゾロも幼いうちはこの家で育ったが、高校辺りから家を出て独立してしまった。
ミホークは裏社会に属する人間としては珍しく、妻一筋で他の女には目もくれなかった。
後添えを迎えるか、甘えることの出来る愛人の一人も持ったらいいのに、とゾロは思う。
ゾロにとっては生まれたときから母はいないので、ミホークが後妻を迎えることに特に感慨はない。
むしろ、最強を謳われる豪胆な父とはいえ、いつまでも一人なのは不憫なのではないかとすら思う。
しかしミホークは、生涯愛するのはゾロの母だった女だけ、と決めているようで、頑として愛人の一人も持とうとはしない。
浮いた噂一つないし、ゾロの知る限り、組織の中に念弟のような存在もいないようだ。
─────溜まるモンとかどうしてんだろうな、あの親父は。
そんな下世話なことをついうっかり考えてしまったりもする。
枯れてしまう歳でもなかろうに。
唯一ミホークが家族同然に傍にいるのを許しているのは、ゾロの母親くいなの異母兄である側近のコウシロウだけだが、幼い頃から師匠と慕っていたコウシロウと父がそういう仲かも知れない、等と想像するのはさすがに抵抗がある。
まぁ、抵抗があるというだけで別にそれならそれで構わないのだが。
いやいや、まだそうと決まったわけでもないのだが。
屋敷についたゾロは、勝手知ったるとばかりに上がりこみ、ミホークの部屋を目指す。
居合わせた構成員達が、ゾロの姿に気づき、「お帰りなさいませ、若!」と頭を下げた。
─────つか、俺はこの家ではまだ「若」扱いかよ。
もっとも、ゾロの事務所の連中とて、この頃ようやっと「社長」という呼称に慣れ始めたくらいなのだけれど。
専務のパウリーなどはなかなか抜けず、今でもたびたびゾロを「若」と呼んでしまっては言い直している。
長い廊下を突っ切って、奥の間を目指す。
後ろをついてきたコウシロウが、奥の間の戸の前で、「ゾロ君、少しお待ちを。」と小さく声をかけてゾロに先んじた。
「ミホーク様、ゾロ君をお連れしました。」
中に呼びかけて戸を開け、ゾロを中に促す。
ゾロが中に入ると、ミホークが退屈そうに上座に座っていた。
「待ちくたびれたぞ。ロロノア。」
鷹揚に言う父に、
「時間通りについたと思うがな。」
と、ゾロはすました顔で答えた。
それからゾロはずかずかと室内に入り、ミホークの真っ正面にどかりと座り込むと、手にした茶封筒をミホークの前に差し出した。
わざわざ呼びつけたのだから、真っ先に知りたいのは上納金の報告だろうと思ったのだ。
ところがミホークはその茶封筒をちらりと見ただけで、
「久方ぶりに親子水入らずだというのに、いきなり金の話とはなんと無粋な男か、ロロノアよ。」
と天を仰いだ。
「あァ?」
思わず気色ばむゾロ。
「まぁよい。時にロロノア。先だって俺はネフェルタリ家の茶会に呼ばれてな。」
「…筋モンが王家に茶ァ飲みに行ったのか。おめでてェな。」
思わず毒づくがミホークはまるで聞いていない。
「ネフェルタリ家のコブラ様にはビビ姫というそれは可憐で聡明な愛娘がおられてな。」
そこまで聞いて、ゾロは思わず一瞬身構えた。
まさかと思うが、縁談の類を言い出すのではあるまいな、と。
だがミホークの続けた言葉はまるで違っていた。
「そのビビ姫はコブラ様の事をこう呼んでおられるのだ。“パパ”と。」
「はあ?」
「一度くらいはお前も俺を“パパ”と呼んでくれようとは思わぬか。」
一瞬ぽかんとしたゾロの顔がみるみるどす黒くなる。
「誰が呼ぶかァ!! クソ親父!!!」
思わず立ち上がって、ゾロは父親を頭ごなしに怒鳴りつけた。
脇に控えていたコウシロウが耐え切れず、口元を手で隠してぷっと吹き出す。
「そんなくだらねぇ事が用事なら俺は帰るぞ!!」
口角泡を飛ばしながらゾロが踵を返そうとすると、
「まだ用は終わってはおらぬ。座れロロノアよ。」
と、ミホークが着座を促した。
「本題の前の軽い戯言ではないか。さても心狭き男よ。」
しれっとして言うが、どこまでも真顔なので、或いは本気でパパと呼んでもらいたいのかもしれない、とゾロは背筋に寒気を感じた。
「本題はなんだ。」
しぶしぶゾロは再びその場に腰を下ろした。
「うむ。その茶会で古い知己に会ってな。」
今度はなんだ、その知己とやらにも娘がいて、“おとうちゃま”とでも呼ばれたくなったか。
そう思うが、努めて顔には出さない。
「その知己が言うには、昔おぬしに刀を譲る約束をしたそうなのだ。」
「…………は?」
全く記憶にないその話に、ゾロは首をかしげた。
ミホークの古い知り合いというからには、ミホークと同世代だろう。
刀を所持していると言う事は“同業者”かそれに連なる職種の人間だ。
そんな人間から刀を譲られる約束をした覚えなど、なかった。
第一、ゾロにはもう充分満足のいく三刀が手元にある。
ミホークは刀剣の蒐集を趣味としているから、お気に入りの刀の他にもいろいろ持ってはいるが、刀とは実戦で使ってこそ意味があると思っているゾロは、今現在自分が使っている刀以外に、余分な刀など持つつもりなど毛頭ない。
「何かの間違いじゃねェか? 俺はそんな約束をした覚えはない。」
「ない? それは妙だな。俺は確かにおぬしにと守り刀一振り預かっている。」
ミホークが、コウシロウに向かって小さく合図をする。
持ってこい、と言ったのだろう、コウシロウが静かに席を立つ。
「守り刀…だと?」
ゾロは瞠目した。
「そいつァ、一体何の茶番だ? 親父。」
守り刀、といえば、普通は懐剣をさす。
懐に携える護身用の短刀の事だ。
譲られる約束をしたというのが太刀でなく懐剣だというなら、尚更自分がそんな約束などしたはずがない。
ミホークとてそんなことはわかりきっているはずだ。
ゾロが振るうのは、敵を倒すための太刀のみだ。
我が身の為の懐剣など持つはずもなければ欲するはずもない。
ましてや他人からおめおめと譲られるはずもない。
他人から懐剣を譲り受けるとは、即ち、自分の力量を侮られているに等しい。
お前は己の身一つ護ることが出来ない青二才だと。
それはゾロへの、許しがたい侮辱だった。
怒りを湛えた目で、ゾロはミホークを見据える。
例え実の父親であっても、事と次第によっては許す事はできぬかもしれない、と思った。
「茶番などではない。たしかに守り刀一振りだ。」
だがミホークはいささかも感情を出さず、静かに言う。
「元は無銘であったが、一流の研師が持てる魂の全てを注ぎ込んで稀に見る名刀に研ぎ上げた逸品だ。地鉄に冴え、刃文に美しく、切れがよい。」
無銘、と聞いて、ゾロが怪訝そうに眉根を寄せた。
ゾロは刀の銘には拘らない方だが、ミホークは刀の出自や銘を殊の外重んじる。
無銘の、しかも懐剣如きに、この褒めようは法外といえた。
「拵の美しさに至ってはもはや芸術品だ。鞘の塗りは純白でなまめかしいまでに艶やか、金の糸巻拵は絢爛にして、その細工はまことに繊細。手元に置いていつまでも愛でていたくなるほどに美しく、清廉である。」
「………そんなに気に入ったのなら親父のものにすればいいだろう…。」
白塗りに金糸の拵の懐剣。
ミホークが手放しで褒める名刀ぶりには興味が沸かないでもなかったが、所詮太刀ではなく懐剣だ。
しかもその些か華美な装飾を聞くだに、武器ではなく装身具に思えて仕方ない。
そもそも懐剣などというものは、貞女が嫁ぐ時に持つものだ。
己が貞操を守る為、或いは、それが犯されそうになったときに自らの命を絶つ為に。
「なるほど。では、ぬしがいらぬのなら俺が貰い受けるとしよう。」
珍しくミホークが笑みを見せた。
それほどまでにミホークを惹き付けた刀とは珍しい、とゾロが思った時、部屋の外に人の気配がした。
「お連れしました、ミホーク様。」
持ってきた、ではなく、連れてきた、というコウシロウの言葉にゾロが反応して顔を向けるのと、誰かが部屋に入ってくるのが同時だった。
ゾロが息を呑む。
入ってきたのは、ひょろりとした痩せた青年だった。
口元に淡い笑みを浮かべて、懐かしそうな目でゾロを見ている。
背はゾロとそれほど変わらないくらい。
だが体つきはゾロよりもずっと華奢で、ゾロよりもいくつか幼く見える顔立ちをしている。
透き通るように白い肌。
襟足で切りそろえられた、癖のないさらさらとした美しい金色の髪。
怜悧にすら見える蒼く透き通った瞳。
愛嬌のあるくるんと巻いた眉毛。
その眉毛に、ゾロは見覚えがあった。
見覚えがあるどころか、この十余年一瞬たりともゾロの心の中から失せることなく焼きついていた唯一の。
「どうだ、名刀であろう?」
ミホークが明らかに青年を指してそう言った。
「親父…………。」
青年を呆然と見つめたまま、ゾロは、震える声で父親を呼んだ。
「…この、刀を…研いだ研師の名は…?」
「赫足のゼフ。」
─────サンジ……………………!
確かに呼んだはずのその名は、ゾロの震える唇からは音として出てこなかった。
けれど、まるでその声なき声が聞こえたかのように、目の前の青年の顔が泣き出すかのように歪んだ。
ゾロ、とその唇が動く。
その瞬間、ゾロは弾かれたように立ち上がり、その痩身を力いっぱい抱きしめていた。
2007/02/19