地に伏して恋歌を聞け
【伍】
『いいかげん…、機嫌直したらどうだ? クルッポー』
ルッチの鳩が苦笑して言う前でパウリーは口をへの字に曲げている。
「そうはいくか。」
心底困った、というオーバーなリアクションで肩を竦めるルッチと鳩を、パウリーが下から睨みあげた。
『ポッポー 俺を睨んだって仕方ねェだろうが。』
すました顔で嘯くルッチと鳩が、心底憎らしくて仕方がない。
イライラと葉巻を噛み潰すパウリーを見て、部下達も皆、触らぬ神に祟りなしといった風情だ。
「腹が立たねェのか、お前らは!!」
まるで他人事のような顔をしているルッチとフランキーに、パウリーが噛み付く。
「腹が立つ立たねェじゃねェだろ。」
フランキーが答えた。
落ち着け、というように、パウリーの肩を叩く。
「社長はもう、“若”じゃねぇ。俺らのボスだ。そのボスがわかっていてやっていることだ。例え、のぼせ上がっていたとしても、な。」
「そののぼせ上がりが問題なんじゃねェか…ッ!! 七武海の前で、あんな…あんな破廉恥な!!」
会食でのゾロとサンジの痴態を思い出して、パウリーの握りしめた拳がわなわなと震える。
「だけど、社長は俺らの言葉なんか聞く耳持っちゃくれねェだろうが。一番いいのは、社長になんか言うより、手っ取り早くあのガキ放り出しちまうことだ。……できんのか?」
フランキーにそう言われて、パウリーは、ぐっと言葉に詰まった。
確かにそうだ。
社長がこちらの諫言に耳を貸さない以上、やれるのは原因となったものの排除だ。
ゾロに恨まれようが斬られようが、強引にサンジを事務所から追い出してしまえばいい。
そう思った瞬間、パウリーの脳裏に、サンジのあのゆるい笑みが浮かんだ。
まるで春の陽だまりで微睡んでいるような、屈託のない、子供のように幼い笑顔。
その笑顔で、とろけるようなうっとりとした目で、あの白痴はゾロを見ていた。
心ごと全部預けてしまったような、目で。
あんなにもゾロしか目に入っていない者を、ゾロから引き離したら、あれはどうなってしまうのだろう。
あんなにも無防備に、あんなにもひたむきに、ゾロの全てを際限なく受け入れる、サンジを。
ずきり、と鋭い痛みを訴えてくるのは、“良心”だ。
いたいけなものを残酷に置き去りする事への。
そんなことをする権利が、どこの誰にあるというのだろう。
「……………できるわけ、ねェだろ……。」
パウリーはぽつりと呟いた。
□ □ □
「いいかげん…、機嫌直してください。」
ベックマンが苦笑して言う前でシャンクスは口をへの字に曲げていた。
「そうはいくか。」
心底困った、という顔で笑うベックマンの右手首には、包帯が巻かれている。
ベックマンの右手は折れていた。
あの後、会食の席に何食わぬ顔で戻ったベックマンは、きっちりと会食の終了までシャンクスに付き合い、シャンクスの車の運転手を勤め上げた上で、「すいません。ちょっと出かけてもかまいませんでしょうか。」と申し出た。
そこでようやっと、シャンクスはベックマンの異変に気がついたのだった。
手首を骨折していながらそれをおくびにも出さないベックマンの精神力は凄まじいの一言に尽きたが、隠されていたシャンクスは当然面白くない。
腹心の変調に気がつかなかった己にも腹が立った。
そうと知っていれば車の運転なんかさせなかったのに…と、ご機嫌はすっかり斜めである。
だから、一人で行くといったベックマンを、シャンクスは強引に付き合って病院に連れて行った。
そうしたら、それが部下にバレて、まさかボスが襲撃されたかと騒がれ、仕方ないのでシャンクスとベックマンがふざけていて間違えてベックマンの手首を折っちまった、というどう聞いても苦し紛れの言い訳をしたのに、なぜか部下達が何の疑問もなく納得したものだから、尚更シャンクスは機嫌を損ねた。自分で言い訳したのに。
それを宥めるのにベックマンは四苦八苦しているわけだが、けれどその顔は笑っている。
ベックマンが怪我を負わされた、と知ったときに、このボスがどれだけ度を失ってくれたか、ベックマンは目の当たりにしたからである。
シャンクスの不機嫌は、半分くらい、それがばつが悪かったせいだ。
部下への厚い信頼と情。
それが痛いほど感じられるからこそ、この主のために命を懸けようと、そう思えるのだ。
命を懸けて守護しようと。
─────“同じ守護する者として”
不意にベックマンの心の中に、あの鮮やかな金髪が蘇った。
あの金髪は、ベックマンのシャンクスに寄せる忠誠心の厚さを知っていた。
知った上で、“同じ守護する者”、と己を名乗った。
「何を考えてる。」
シャンクスに声をかけられ、ベックマンはハッと我に返った。
「“花”の事か?」
更に問われ、ベックマンは
「はい。」
と答えた。
「“同じ守護する者として”…か…。」
図らずも、シャンクスがベックマンの心の内を読んだように呟いた。
あの沈丁花の裏庭で何があったか、既にベックマンはシャンクスに報告していた。
ベックマンが手首を折られたと知った時、シャンクスは初め、クロコダイルかゾロにやられたものだと思った。
シャンクスの配下きっての手練れであるベックマンに傷を負わせるなど、相手が立場が上の者で、ベックマンが抵抗できなかったからだとしか思えなかったからだ。
けれど実際は、あの壮絶な白痴美を見せ付けてくれた“花”が、たった一発の蹴りでベックマンの手首を折ったのだという。
確かにシャンクスも、あの“花”のアレは演技ではないかと思っていた。
だがそれも半信半疑で、だからこそ面白半分も手伝って、ベックマンにあれを襲え、と、けしかけたのだ。
まさかベックマンが“花”自身に返り討ちに合い、あまつさえ腕を折られるなど、予想だにしていなかった。
「“同じ守護する者として”、と、そう言ったと、言ったな。」
「はい。」
「守護する者…。」
呟いて、シャンクスはなにやら考え込む。
そして、ふと顔を上げた。
「お前は何を守護している?」
何をわかりきったことを、と、ベックマンは、
「あなたです。」
と即答する。
「だよなあ…。」
シャンクスもその答えには何の疑問も抱かない。
「なら、あの“花”の守護するものは何だ…?」
訝しく口をついて出たその言葉に、ベックマンが答える。
「…ロロノア・ゾロかと。」
「あんな真似をしてまでか!?」
途端に苛立ったようにシャンクスが言い募った。
「白痴のふりをして、プライドも捨てて、男に掘られて、皆に蔑まれてまで、守護せねばならないほどロロノアは弱いか??? あれとて鷹の目の後継だ、三刀流の魔獣と謳われた男だ! だからこそあの若さでミホークのシマを一つ分け与えられたんだぞ!!」
激昂して怒鳴るシャンクスに、ベックマンは静かに言う。
「何か…そうせざるを得ない事態になっているのやもしれませんね。」
言われて、シャンクスが瞠目した。
「…ロロノアのところで、か…?」
ベックマンが小さく頷く。
「あれほどの戦闘力の男が、なりふりかまわず白痴の真似までして、守る必要のないほど強い男を守らねばならぬ…何かが。」
しばし睨みつけるようにベックマンを凝視していたシャンクスは、思い出したように、ふう、と息を吐くと、どっかりと背もたれに身を預けた。
会食でのサンジを、落ち着いて、思い返す。
しなだれかかるようにゾロの膝の上に乗っていたサンジ。
来た料理を手づかみで食べたサンジ。
七武海を見回して、艶やかに微笑んで見せたサンジ。
「…白痴の情夫…なら、ロロノアにべったりくっついていても、不自然じゃない…。」
考えながら、低く呟く。
「べったりくっついてりゃあ…盾になることができる…。ロロノアの方も、白痴の淫乱にすっかりのめりこんだバカ殿様きどっていられる。…食事を…全てロロノアが食う前に自分の口に入れたのは…、毒見、か…?」
少しずつ、サンジの行動の裏が透けてくる。
間違いなく、あの“花”は、ロロノア・ゾロを守護する者。
「鷹の目も一枚噛んでやがるな、こりゃ…。」
七武海の前で無情に息子を切り捨てたかに見えた、ミホーク。
「だがわからねェのは、それほどの男をどこから拾ってきたか、だ。あの行動の発露がロロノアへの忠誠心からだとすれば、並みのもんじゃねェ。鷹の目の兵隊にもあんなんは見たことがねェ。軍隊上がりかなにかにしちゃあ細すぎる。」
シャンクスの言葉に、ベックマンも頷く。
「…かなり実戦を積んでいると思います。身のこなしも伊達じゃない。俺を通り過ぎた瞬間、影も形も消えて…あんなバカなことが…身を隠すところなどどこにもなかったのに…。」
「待て。」
いきなりシャンクスがベックマンの言葉を遮った。
「消えた?」
「ええ、まるで…建物の壁に吸い込まれたみたいに…。」
「壁に…吸い込まれた……。」
シャンクスの顔が徐々に緊迫したものになる。
「…その手首…蹴られたといったな…。」
「はい。あの細い体からは信じられないほどの重い蹴りでした。」
重い蹴り、とシャンクスは口の中で反芻する。
「まさか……、いや、飛躍しすぎか…? だが……。」
呆然として、なにやらぶつぶつと呟き続けるシャンクスをベックマンが怪訝そうに見つめる。
やがて、シャンクスは、ベックマンを見上げてこう言った。
「バラティエには、あちこちに隠し通路がある、という噂がある。」
唐突に変わった話題に、ベックマンが少々面食らった。
己の主は何の話を始めたのだろう。
「隠し通路…ですか。」
それでも話の相槌を打つ。
「そうだ。隠退したとはいえ、赫足の発言力はまだまだ強い。あの料亭が秘密会合に使われる事が多くなってからは、人に知られたくないものもあそこに隠されるようになった。万が一の有事の際に、それが秘密裏に処理できるよう…或いは逃げられるよう…、無数の抜け道や隠し通路がある。…という噂だ。」
「噂…。」
「噂だ。なにしろ、バラティエができて十余年間、有事、ってのが起こっちゃいないからな。その隠し通路とやらを見た奴もいない。七武海ですら、だ。」
シャンクスが何を言いたいのか悟って、ベックマンは
「“花”はその抜け道を通って姿を消した、と?」
と、問い返した。
「まァ、待て。」
シャンクスの顔に、彼らしいシニカルな笑みが浮かんでいる。
「七武海すらも知らない抜け道を知っている可能性があるのは、どんな奴だと思う?」
少し考えて、ベックマンは答えた。
「…バラティエの…従業員…ですか?」
「そうだ。それも昨日今日入ったような新人じゃない。何年も何年もバラティエにいた者。例えば…、オーナーが作ってしかるべきの絶品スープを任せられるほどの。」
「コック、ですか…? でも、コックごときにあの身のこなしは……。」
そう言い掛けて、ベックマンはハッとした。
その顔を見て、シャンクスも我が意を得たりとばかりににやりとする。
「バラティエのオーナー、ゼフの、“赫足”の名の由来を知っているか?」
ベックマンが頷く。
「赫足のゼフといえば、戦闘において一切手を使わなかったという蹴り技の達人だったと聞いております。その強靭な脚力は岩盤をも砕き、鋼鉄にすら足形を残すことができたと。そして“赫足”の名は、敵を蹴り倒して染まる、返り血を浴びた靴の事だとか。」
「その通りだ。」
シャンクスも頷いてみせる。
「蹴り技…………………。」
ベックマンがひとりごちた。
その脳裏には、不安定に倒れた姿勢から正確にベックマンの手首を蹴り上げたあの身のこなしが鮮やかに蘇る。
同時に、目にも留まらぬ速さで綺麗に伸びた足の軌跡と、ふわりと靡いた金色の髪と、その瞬間鼻孔を擽った沈丁花の香りも。
ナイフのように鋭く、大槌のように重い蹴りだった。
手首がその衝撃に耐え切れず、折れてしまうほど。
ベックマンの記憶は、まだあの凄まじい蹴りの衝撃を生々しく刻んでいる。
「もし、だ。ベックマン。もしもの話、だ。」
興奮を隠しきれないように顔を寄せるシャンクスの目は、宝物を見つけた子供のようにきらきらとしている。
「もし、ゼフの全てを受け継いだ者がいたとしたら。」
シャンクスが、声を潜めるように言った。
「ゼフの、料理人としての技術のみならず、赫足としてのそれすら受け継いだ者がいたとしたら。」
─────“赫足”の後継が、“鷹の目”の後継の守り刀になっているとしたら。
その仮説が持つ意味を、ベックマンは戦慄しながら、受け止めていた。