【1】
いつもの夜。
サンジは、台所の後片付けをして、シンクまできっちり丁寧に拭きあげて、一息ついた。
ちらりとテーブルの上に目をやる。
そこにはバスケットに入った一人分の食事が置かれている。
見張り番のための夜食。
常ならば、サンジは夜食を見張り台まで自分で持っていく。
だが今日のサンジはそれが出来ない。
なぜなら今日の見張り番は、…ゾロだから。
小さく舌打ちをして、サンジはタバコに火をつけた。
わかっているのだ。
自分だけが一方的に過剰に反応しているだけだという事は。
たぶん、サンジが夜食を持っていっても、あの男は眉一つ動かさず、礼一つ言わず、けれど、残さず綺麗に平らげて、空のバスケットを突っ返すだろう。
その感情の一つも乱さずに。
自分だけだ。
自分だけが、あの男にこんなにも心を乱されている。勝手に。
滑稽だ。と、サンジは思わず自嘲する。
立ったまま、ラウンジの壁に体を預け、緩く瞑目した。
ほんの少し目を閉じただけで、網膜に焼き付いてしまったあの映像は、瞼の裏に鮮やかに蘇る。
─────死ぬくらいなら野望を捨てろよ!!
─────簡単だろ!!! 野望捨てるくらい!!!
そう叫んだサンジの目の前で、「引くくらいなら死んだ方がマシだ」、と血まみれで笑いながら言って、あの男は真正面から袈裟懸けに斬られた。
剣士としての揺るぎない信念。ひたむきに野望を見据える瞳。
魅せられたのだ、一瞬で。
己の命すらかけて、全身全霊で、ただ一途に夢を追うあの姿に。
あの時のサンジは…、恩と贖罪に苛まれて、夢を追う事を諦めてしまっていたから。
魔獣、とはよく言ったものだ、と思う。
確かにあの男は獣のようだ。
本能に忠実で、何ものにも媚びない。何ものにも従わない。
ただ己の信念のみで動く。
獣のように猛々しく残酷で…………どこまでも純粋で美しい。
その孤高で誇り高い男が、ただ唯一、己が認めた船長の前でだけは、頭を垂れ、何もかもを享受する。
ただ唯一、ルフィの前でだけ。
その姿を目にするたび、心に鋭い痛みが走るようになったのは、いつの頃からだろう?
…痛み?
何故痛みを感じなければならない?
嫉妬か?
まさかルフィに成り代わりたいとでも?
…は。…おこがましいにも程がある。
「滑稽だ。」
と、今度は声に出して呟いた。
ルフィ。
俺達の太陽。
俺達の
成り代わりたいと思ったことなどない。
ただ、ほんの少し。
ほんの少し、羨ましいと思ってしまうだけ。
ルフィを見る、ゾロの優しいまなざしを。
天を突き刺しながら誓った、あの涙を。
揺るぎなく確かな、二人の絆を。
全て自分には、決して与えられないものだから。
サンジは、軽く頭を振って、煮詰まった自分の想いを霧散させると、ラウンジのドアを開けて外に出た。
夏島の気候に入っているらしく、この頃は夜でもそれほど肌寒さを感じない日が続いている。
気候が安定しているという事は次の島が近いという事だ。
夜空を振り仰ぐと、美しい満月が浮かんでいた。
まるで正気を吸い込まれそうな、黄金色の光。
─────ああ、ゾロの目と同じ色だ。
敵と対峙する時の、ゾロの瞳だ。
魔獣という名にふさわしい、禍々しく獰猛でぎらついて凶暴で、そのくせ底冷えがするほどに静謐で、人の狂気を引きずり出すほどに妖艶な、黄金。
サンジの心を捉えて放さない、美しい瞳。
くらりと微かな眩暈を覚えて、サンジは視線を海に落とした。
漆黒の海に、月が映っている。
その鮮やかで強い白光は、他の全ての星を霞ませて、海にくっきりと道をつける。
まるで…、あの男の生き様そのもののように。
ルフィが太陽なら、ゾロは月だ。
強くまばゆい太陽に、高潔に泰然と並び立つ、月。
地べたに這い蹲っているこの手には、触れることさえ叶わない…。
不意に視線を感じて、サンジは、ハッとして振り返った。
見張り台の上に人影。
─────ゾロ。
人影は、じっとこちらを見ている。
恐らく、甲板に出てきたサンジの気配を悟って様子見で覗いたのだろう。
とくん、と心臓が鳴った。
満月を背にした影は、その表情を全く見ることが出来ない。
けれど、その強い視線が、自分を見ていることだけはわかる。
とくん、とくん、と心臓が鳴っている。
ゾロの影は微動だにしない。
何故そんなに自分を見ているのだろう。
…或いは、自分から発するこの負の気を、あの男に気取られただろうか。
月に恋するあさましいこの想いを。
動揺を押し殺して、サンジはタバコを深く吸い込んだ。
「…何見てんだよ。」
抑揚のない声でそう言うと、
「飯。」
と、そっけない声が返ってきた。
束の間、ほっと息を吐く。
「ラウンジにある。勝手に食え。」
声は震えなかっただろうか。
何の感情も滲み出なかっただろうか。
そんなことを思いながらサンジは、踵を返してその場を立ち去った。
心臓はまだ、とくん、とくん、と鳴り続けていた。