+ UNALTERED +
§ なにもない島 §
“なにもない島”は、絵本作家ウソップが、この世に送り出した一番初めの絵本だった。
ウソップの童話の中でも、一番とりとめがなく、一番荒唐無稽なそれは、
今日は俺が南海に棲む巨大な金魚と戦ったときの話をしてやろう。
という、唐突な呼びかけから始まっている。
その話が一番最初に本になったとき、それは、自費出版、という形をとっていた。
大きな大きな極彩色の金魚の描かれた表紙をめくると、すぐ目に入る、小さな献辞。
─────カヤに捧ぐ。
それは、絵本作家が、この世にたった一人、全身全霊を込めて愛した、今は亡き妻の名前だった。
◇ ◇ ◇
ぽかぽか陽気の昼下がり。
サンジは、とあるおもちゃ会社の屋上で、友人とランチとしゃれ込んでいた。
友人の名はウソップ。
このビルのオーナー、(株)ゴーイングメリー代表取締役だ。
「サンジよぉー、お前、もちっと辛抱足りんもんかねぇ。」
ウソップがサンドイッチをもぐもぐしながらぼやいた。
ぼやきながらも咀嚼をやめないそのサンドイッチは、サンジお手製のアボガドの入ったBLTサンドだ。
初めてこのサンドイッチを食べることになった一件で、サンジとウソップは友達になった。
ウソップとサンジは親子ほども歳が離れていたし、実際ウソップにはサンジと同い年の息子がいたし、ウソップは大会社の社長でサンジはホテルのレストランのコックで、歳も立場も違ったけれど、二人は不思議なほど馬が合ったのだ。
今では親友と言っていいほどの関係になっていた。
「うるせぇな。しかたねぇだろう。目の前でレディが侮辱されてんのに黙って見てるなんて男が廃るだろうが。」
だからサンジも父親と言っていいほど年上のウソップに対して敬語を使わない。
それをウソップも気にしない。
「いやいやいやいやいやいや、それで客蹴り飛ばしちゃいけねぇだろう。本末転倒だろう。」
「ふん。レディを粗末にするやつなんざクソくらえだ。」
「コックさんがクソ食らえとか言ってはいけません。」
「んじゃ何か、うんこ召し上がれって言やあいいのかよ。」
「召し上がりたくねぇよ、うんこなんざ。いくらお前がコックでも。」
「俺だってうんこなんざ調理しねぇよ、クソ野郎。」
「またクソとか言うー。」
食事中にふさわしいとは言いがたい会話をしながら、二人はサンドイッチを頬張る。
「に、しても、お前どーすんのよ、クビになっちゃって。」
「んなもん、なんとでもなるさ。俺ほどの一流コックになるとな。」
サンジがふてぶてしく胸を張るのを見て、ウソップは苦笑しながら小さく嘆息した。
このかなり年下の親友が勤め先をクビになるのは、実はこれが初めてではない。
サンジと初めて会ったあのホテルを、あれからすぐにサンジはクビになった。
それからサンジは大きなステーキハウスに勤めだしたが、そこもクビになり、今度はフレンチレストランに雇われた。
そして、つい昨日、そこもやっぱりクビになったのだ。
理由はいつも同じ。
客との暴力沙汰。
極端なフェミニストで、意外なほど正義感の強いサンジは、客の揉め事をスルーすることがいつも出来なかった。
ことに女性客が絡まれていたり、侮辱されたりすると、サンジはついついそれを助けに出てしまい、結果、たちの悪い客を蹴り飛ばしてしまってクビになる。
クビ、とはいうものの、本当のところ、店側としては、腕もよく、見た目もよく、愛想もいいサンジを手放すのを心底惜しいと思っていることを、ウソップは知っている。
だが、たちの悪い客なんてものは、後始末においても大概たちが悪く、結果、店に迷惑をかける前に、とサンジがあっさりやめてしまうのだ。
それでもサンジの腕をほしがる飲食店は多いらしく、サンジが長く失業していたところなど、ウソップはまだ見ていない。
だが今回は、さすがに立て続けに職を失ったのが堪えたのか、はたまた人間関係に疲れてしまったのか、サンジはなかなか次の職につこうとしていなかった。
代わりに毎日、ウソップにこうして昼飯を届けに来る。
ウソップとしては、友人の職が気になりもするし、職が決まったら来なくなるであろうこのおいしいランチが惜しかったりもする。
なかなかに悩ましい。
もしサンジが、ウソップに職を紹介してくれ、と頼んできたなら、ウソップはすぐにでもそれを叶えただろう。
曲がりなりにも名の知れた会社の代表であるウソップには、そんなことなどたやすい。
なんならサンジに店を持たせてやることだってできる。
だがサンジは一度もそういった意味でウソップを頼ろうとしたことはなかった。
ウソップが婉曲に申し出たときも、サンジは「いらねぇよ。」とそれを一蹴した。
ウソップはそれを残念に思いつつも、サンジが、ウソップの持つ背景にこだわらずウソップと友達でいてくれることを、嬉しいと思わざるを得なかった。
だからウソップも、自分からサンジに援助めいたことは一切言わず、親友としてぼやくにとどめるのだ。
「うっし、じゃあ、失業して可哀想なサンジくんには俺様が特製コーヒーを奢ってやろう。」
「奢ってやろう、って、てめェいつも秘書室のレディが淹れたコーヒーそのまま持ってくるだけじゃねぇか。たまには自分で淹れてみろよ。」
「馬鹿野郎、俺様を見くびるんじゃねぇ! 俺様の淹れたコーヒーは泥水よりまずいと社員全員のお墨付きだ。」
「全員かよ!」
ボケて突っ込んで笑いあっていると、不意に、
「そう思って、秘書室特製のコーヒーをお持ちしましたわ。」
と、落ち着いた声がした。
振り向くと、社長秘書のロビンがプラカップとポットの乗ったトレイを持って立っていた。
「おお、ロビン! 気が利くじゃねぇか!」
「あああ〜〜〜♪ ロビンちゅわーーーん! 今日も変わらずにお美しい!! よろしければボクのアボガド入りBLTサンドをいかがですかああああああ?」
さっきまでのちょいワル風情はどこへやら、サンジはとたんに腰をくねらせてロビンに声をかける。
思わず生温かい目になるウソップ。
「なんで突然“ボク”だよ。」
「あら、私の分もあるの? 嬉しいわ、コックさん。」
「もちろんさ、ロビンちゃあああああああああああん。」
自分よりも10歳近く年上のロビンを、サンジは屈託なくちゃんづけにする。
最初こそ戸惑った様子を見せていたロビンだったが、最近では、社長の風変わりな友人にすっかり慣れて、まんざらでもない様子だ。
二人の近くに腰を下ろし、持参したプラカップにコーヒーを注ぐ。
「頂き物なんですけど、クッキーもお持ちしました。どうぞ。」
「ボク、クッキー大好物ですう〜〜〜〜〜〜♪」
「いや、だから。」
もう突っ込むのもめんどくさい。
ウソップはもう呆れてコーヒーをすすった。
それにしても、昼休みにこんな屋上まで、どうしてロビンがわざわざコーヒーを持ってきたのだろう。
ちらりと伺うような目をロビンに向けると、ロビンが心得た様子で軽く頷いた。
「社長、お食事は続けたままお聞きください。先ほど本家から連絡がありまして、またメイドが解雇されたようです。」
「またか。」
ウソップの顔が曇る。
「本家からの報告は“素行不良”とだけきていますが、こちらの調査では、若君がまた…例によって…。」
ロビンが言いにくそうに言葉を濁す。
「しょうがねぇなぁ…ゾロも…。」
ウソップが重いため息をつく。
「後任については、従来どおりクラハドール氏が責任を負う旨、来ているんですが、」
話の内容はわからないまでも、部外者であるサンジは、タバコを吸うふりをしてさりげなくその場を離れようとした。
「コックさん、ちょっと待っていただける?」
それをロビンが引き止めた。
「ロビン?」
ウソップが怪訝そうな顔をする。
そもそも、優秀な秘書であるロビンが、サンジのいる前でわざわざこんな話を始めたこと自体、解せない。
別にサンジに知られて困る話でもなかったが。
「社長。私に考えがあるんですが。」
ロビンがウソップに向き直る。
「本家のメイドの件、サンジさんにお願いするわけには参りませんでしょうか。」
「「はあ?」」
サンジとウソップが思わずハモった。
「サンジさんなら、料理の腕は確かですし、性格もよく存じております。歳も若君と同い年ですし、何よりも社長のお心を若君に伝えるのには最上の人選だと思います。」
「ロビン…。」
ウソップが呆然と呟く。
サンジは、普段クールビューティーなロビンの、思いもかけない熱っぽい口調に、ただただ驚いていた。
まるで話が見えないでいたが、これだけキーワードが出ればなんとなくはわかる。
本家、と言うのは恐らくウソップの家族がいる本宅で、若君というのはウソップの息子だろう。
ウソップにはサンジと同い年の息子がいると、以前ちらっと聞いたことがある。
「サンジさんは、家政婦の経験はおありでしょうか?」
ロビンがサンジに向き直って聞いてきた。
「住み込みはねぇけど通いならあるよ。ベビーシッターもできるぜ?」
ふざけてサンジは答えた。
ベビーシッターときいて、ロビンが少し笑いを漏らす。
「だけど、俺、家政婦の類は長続きしたことねぇんだよ。なにせ家政婦雇うなんてやつは上流階級のやつが多いし、そういう奴らは雇ってやってるんだ、みたいな、いけ好かねェのが多いからさァ、まあ、だいたい一ヶ月ともたねェな、俺ァ。」
「そこです、サンジさん。」
ずいっとロビンが膝を詰めた。
「んん?」
「人を使って当たり前の地位にいる人間は、時として使われる側の人間の心を蔑ろにしがちです。そうですよね、社長?」
ロビンがウソップを向くと、ウソップがまじめな顔で頷いた。
「あァ…まぁな。人間ってのは、立場が偉くなると、自分自身の人間そのものも偉くなったと勘違いするもんなんだよなぁ。例えば俺は社長だから、社員全員の上に立ってるけどよぉ、それはあくまでもここが俺の会社で、俺が社長だからだ。会社を出て、このウソップ様個人だけになったら、俺は別に偉くもなんともねぇよ。」
それを聞いて、サンジがにかっと笑う。
「俺ァ、てめぇのそういうとこがすげぇ好きだぜ、ウソップ。だから俺らダチやれてんだもんな。」
「そういうわけだ。」
ウソップも笑い返す。
ロビンも薄く微笑みながら、
「社長がそういう方だと、社員の誰もがわかっているから、社員は皆、心からあなたについていこうと思えるんです。もちろん、この私もです。」
と言った。
ウソップが照れまくって転げまわる。
「けれど、」
ロビンが不意に語調を厳しくした。
「社長がこんなにもよくわかっておられる事が、残念ながら、若君にはわかっておられない。」
その言葉に、ウソップが真顔になる。
「使用人は、使い捨ての消耗品ではありません。主も従も、同じ、心のある人間です。そんな事すら、若君はわかっておられない。」
ロビンの口調は、どこか責めるような響きを持っていた。
「あ、のさ、」
サンジが恐る恐る口を出した。
「若君、ってのは、…ウソップの息子のことだよな? 俺と同い年とかっていう。」
「…そうだ。ゾロって名前で、お前と同じ19歳。大学一年だ。」
「一緒には暮らしてねぇんだ?」
「あー…うー…、まぁ、そだな。」
らしくもなく、ウソップの言葉は歯切れが悪い。
「サンジさん、社長と若君は、若君が生まれたときから一度も共にお暮らしになったことがないんです。」
「えっ…、」
「おい、…ロビン…、」
ウソップが情けない顔でロビンを制しようとするが、ロビンはまったく意に介さず、言葉を続けた。
「社長、もういいじゃありませんか。理由はどうであれ、あなたが血を分けた我が子の養育を他人に任せたまま19年も逃げ続けたのは事実です。でも、もう終わりにするべきではないでしょうか。」
静かな、けれどきっぱりした声だった。
ウソップはたちまち言葉につまり黙り込む。
「これは私だけの考えではありません。この会社設立当時からあなたと共にあった古参の社員たち全員の考えです。サンジさんを、ロロノア本家のメイドに雇用してください。」
「ちょちょちょちょっと待ってよ、ロビンちゃん。ウソップんちの馬鹿息子の話と俺と、どこでどうつながるわけ?」
「サンジさん、失礼を承知で申し上げますが、私どもは、あなたが社長と交友を持った際、あなたの身辺を調査させていただきました。」
「あー。そりゃ仕方ないだろうね。」
なんといってもウソップはそれなりに大きな会社の社長で、サンジはそこらへんにいるチンピラも同然のコックだ。
「転々と職を変えている料理人、という点で、サンジさんの人間性に危惧を抱いたのは否定しません。ですから私は、私だけでなく皆が、僭越ですが、あなたの人となりをそれぞれの目で見て参りました。」
え、そうなの? とサンジはちょっと顔を赤くした。
身上調査は致し方ないとは思ったが、今までずっと観察されていたのかと思うとちょっと恥ずかしくなる。
「あなたは口が悪く、喧嘩っ早くて、争い事に慣れている。ですが、心の中に一本信念をしっかりと持っていて、それを逸脱することは決してしない。喧嘩っ早いのも己の信念に基づいているからです。喧嘩っ早い一方で時に驚くほどの我慢強さを垣間見ることもありましたし、料理人としての姿勢には尊敬すら覚えます。そして女性にはとても優しい。」
ほめ言葉のラッシュに、サンジは、でゅふふふでゅふふふ、と盛大に照れる。
「何より、社長と共にいらっしゃる姿に、私たちは若君を想起せずにはいられませんでした。正常な親子関係をもてたなら、若君もこのように社長と穏やかな時間をもてただろうに、と。」
そこでロビンはいったん言葉を切り、切なげに目を伏せた。
「…ウソップの息子と俺って似てんのかい?」
「いいえ。若君とサンジさんは何もかも違います。見た目も性質も、水と油ほどに。けれど、本質の源流の部分で、何か共鳴するところがあるような気もしています。」
「ふぅん…。」
サンジは、ロビンの言葉にちょっと考えるようなしぐさをしてから、ウソップに視線を移した。
ウソップは、さっきまでの陽気なおしゃべりはすっかり鳴りを潜めて、まるで別人のように黙りこくっていた。
「ウソップ。」
サンジが呼ぶと、ウソップはノロノロと顔を上げる。
その目は驚くほど生気がない。
そんなウソップに、サンジは屈託なく笑いかけて、
「どうして息子と一緒に暮らせなかったのか、聞いてもいいか? 親友。」
と声をかけた。
ウソップがハッと目を見開く。
一瞬泣き笑いのような奇妙な顔をしてから、ウソップは、
「…長ェ話なんだけど、聞いてくれるか? 親友。」
と、答えた。
2008.10.30