■ 裏切りの代償 ■
§ 禁断の果実 §
「公園の駐車場にリンゴ屋さんがきてるのよ〜う。行ってみなーい? ドゥー?」
隣のクロコダイルの奥さんが、そう言いながらサンジの部屋に来たのは、じきにお昼、という頃だった。
「リンゴ屋さん?」
「なんかねぃ、農家さんが直接売りに来てるみたいよーぅ?」
サンジの住む公団には、移動販売車がよく来る。
野菜や果物、揚げパンやメロンパン、アイスクリーム。
公団の奥様方にとっては、ちょっとしたイベントでもあった。
リンゴか。息子に食べさせてやりたいな。
そう思い、サンジは、ピンクのエプロンのポケットにサイフを捻じ込んで、クロコダイルの奥さんと外に出た。
公園の駐車場には、白い移動販売車が停まっていた。
手前に、「おいしい採れたてリンゴ」と手書きの看板が木箱に立てかけられている。
開けられたハッチバックの周りは、既に近所の奥様方が何人も集まっていて、キャップを被ったリンゴ売りの男が、試食用のリンゴをその場で切り分けて、奥様方に振舞っている。
サンジとクロコダイルの奥さんが近づくと、リンゴ売りは、サンジを見て、目深に被ったキャップのつばを、親指でくいっと押し上げた。
男の顔を見た瞬間、サンジの全身は凍りついた。
────…ゾロ………!
そこに、5年前、自分が裏切った男の顔が、あった。
あまりの驚愕に、すうっと脳天から血の気が引いていく。
はっきりと顔色が変わったサンジを見て、リンゴ売りが口の端を笑みの形に引き上げる。けれどその目は笑っていない。
どうして、ゾロが、ここに。なんで、リンゴ売りなんかに。
サンジの白い顔が、より一層色を失う。
すっ、と、リンゴ売りがサンジの前にリンゴを差し出した。
そのリンゴは、ルビーのような鮮やかな紅に色づいていて、見るからに美味しそうだった。
けれど、サンジにはそれが、罪の果実に思えた。
己の罪を断罪する、禁断の果実に。
サンジが受けとる事もできずに呆然としていると、リンゴ売りは、手に持ったフルーツナイフで、手早くリンゴを切り分け、皮を剥いてから、もう一度サンジにそれを差し出してきた。
「奥さん。どうぞ。」
その笑顔は、人には愛想のいい柔らかな笑みに見えたろう。
けれどサンジは、その瞬間、ぞくりと戦慄に貫かれた。
「どうしたのぅ?」
クロコダイルの奥さんがサンジを振り向いたので、サンジは慌ててリンゴ売りからリンゴを受け取った。
いっぱいに蜜が入った、瑞々しい果実。
サンジはそれを、機械的に口に運んだ。
しゃくり。
軽い歯ごたえと、爽やかな甘味。たちのぼる香気。
けれどサンジには、ほとんど味がわからなかった。
動揺を露にしないようにするのが、精一杯だった。
リンゴ売りは、サンジにリンゴを渡すと、もうサンジの事は見向きもせず、奥様方にリンゴを売り始めた。
クロコダイルの奥さんも熱心に木箱を覗き込んでいる。
サンジはただ、呆然とリンゴ売りを見ていた。
目の前の男は、間違いなく、ゾロだった。
かつてサンジが愛して、サンジが愛されて、そして、サンジが裏切った、男だった。
あれから、5年近くも経っていた。
────そのゾロが、どうしてここに。
心臓が早鐘を打っていた。
心臓が、こめかみでどくんどくんと痛いほど脈打っていて、…吐き気がした。
その場で倒れそうなほどの強烈な嘔吐感を、サンジは、息を止めて、耐える。
「ねぃ、それでいーい?」
クロコダイルの奥さんの声に、ハッと我に返る。
「え、と、ごめん、何?」
「やーねぃ、聞いてなかったのぅ?」
ガハハとクロコダイルの奥さんは笑い、
「箱で買うと安いから、二人でわけっこしなーい?」
と言った。
それに曖昧に頷くと、クロコダイルの奥さんは、「じゃそういう事で。」とリンゴ売りに言う。
するとリンゴ売りは、リンゴの木箱を一箱、車の奥から出してきて、こう言った。
「重いですからね、お部屋までお持ちしますよ。何階ですか?」
刹那、ぎくりとした。
ゾロに、部屋を知られてはならない、と思った。
どきどきと脈が早くなる。
「い、いえ、あの、持てます。大丈夫です。」
サンジは必死で頭を振った。
「運びますよ。遠慮なさらず。」
「そうよーぅ。運んでもらいましょうよーぅ。」
「大丈夫! 5キロぐらい、息子に比べたら全然軽いし。」
息子の体重は14キロある。それを抱えて部屋まで走った事だってあるのだ。
焦るあまり、うっかりそう口走ると、リンゴ売りの目が、ぎらりと嫌な光を放った。
「息子さん、が、いらっしゃるんですか。」
己の失言を悟ってももう遅い。
「サンジさんちの子、4歳にしてはちょっとちっちゃくて可愛いのよねーぃ。」
と、クロコダイルの奥さんが聞いてくるのにも内心舌を打つ。
「4歳、…。」
ぼそりと呟いたリンゴ売りの声を聞いたとたん、サンジは、無我夢中でその場を逃げ出していた。
もうこれ以上この場にいることは、耐えられなかった。
クロコダイルの奥さんをその場に残して、部屋に駆け戻る。
リビングに走り込んだ瞬間、サンジの体は力が抜けたようにその場にずるずると崩れ落ちた。
────ゾロ、だった。
全身が震えて止まらない。
頭の中ががんがんした。
がんがんして、何も、考えられない。
ただ、ゾロ、とそれだけ。
それだけが、頭の中をぐるぐるする。
何故、どうして、ゾロが。
偶然に? …違う。それはありえない。
あの街から、どれだけ離れてると思ってる。この町が。
車で何時間かかると思っている。
偶然、など、ありえない。
まさか…追ってきたのか…? ゾロ…。
リンゴ売りのふりをして?
何故、今さら…。
5年も経っているのに…。
いや。
もしかしたら、5年間、ゾロはずっとサンジを探し続けていたのかもしれない。
その事に思いあたり、サンジはぞっとした。
まさか。
でも、もし、そうなら。
ゾロが今でも自分を愛しているなんて、自分に都合のいい事を考えたりはしない。
サンジのした事は、ゾロを傷つけこそすれ、愛を深めたりはしなかったろう。
それだけの事を、サンジはしでかしてしまった。
だとしたら。
────復讐、…か?
そう考えて、サンジは慄然としていた。
その時だった。
ピンポーン、と、チャイムが鳴った。
慌てて我に返る。
いけない。
クロコダイルの奥さんをほったらかしにしてしまった。
急いで立ち上がり、「はーい。」と返事をして、玄関に走った。
重い鉄の扉を開ける。
その向こうにいるのが、クロコダイルの奥さんじゃない、と悟った瞬間、サンジは反射的にドアを閉めた。
がん、と音がして、けれどドアは完全に閉まらない。
ドアの外の影が、ドアの隙間に、足を挿し入れていた。
がん! がん! とサンジは気が狂ったように何度も何度もドアを閉めようと力任せに引く。
挿し込まれた足に、重い鉄の扉が容赦なくぶち当たるのも構わずに。
何回めかの、がん!は、大きな手に遮られた。
その手がドアを掴み、力任せにこじ開ける。
ドアの向こうに立っていたのは、ゾロだった。
「奥さん。お買い上げのリンゴ、お持ちしました。」
ゾロの顔が凶悪な笑みに彩られた。